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片野城(茨城県石岡市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8873.JPG←主郭北側の幅広の空堀
 片野城は、岩槻城を北条氏康に奪われた太田三楽斎資正が拠った城として知られている。元は、小田氏の一族八代将監が、鎌倉中期の文永年間(1264~74年)に小田城の北の守りの砦として柿岡から移り、佐久山に城を築いたとされる。その後、南北朝時代に北畠親房が小田城に立て籠もった際、片野彦三郎親吉が助けたとも言う。いずれにしても鎌倉~室町期には、片野城は柿岡城と共に小田氏が東の大掾氏・江戸氏らに備えた最前線の城であった。戦国時代後期になると、小田氏の勢力はかなり減退し、1564年に上杉謙信が小田城を攻撃した頃には、片野城を含む北郡は佐竹義昭が小田氏から奪っている。そして1566年、岩槻城を北条氏康に奪われた太田三楽斎資正が、子の梶原政景と共に佐竹義重を頼って常陸に逃れ、客将として遇され片野城を預けられた。以後、柿岡城を与えられた政景と共に、片野城の資正は小田氏攻撃の最前線を担い、片野城を現在の規模に拡張したと考えられている。1569年、手這坂の合戦で大敗した小田氏治は、本拠の小田城を再び失い、以後土浦城木田余城を拠点とした。一方、資正は3男資武と共に引き続き片野城を居城としたが、1591年に病没した。その後、石塚城主石塚義国が片野城に移ったが、1602年に佐竹義宣が出羽秋田に移封となると、石塚氏もこの地を去った。その後は、織田信雄の家臣であった滝川雄利が片野城に入って片野藩を立藩したが、嫡子正利が多病のため、1625年に継嗣なく断絶・廃藩となった。

 片野城は、恋瀬川東岸の比高20m程の丘陵上に築かれている。連郭式を基本とした比較的広い城域の城で、各曲輪は堀切で分断されている。主郭とニノ郭の間だけ土橋が架かっているが、その他では、七代天神社のある三ノ郭の南にある角馬出の両側は土橋となっている。主郭は最も防備が厳重で、周囲を土塁で囲み、北~東~南にかけて幅の広い空堀が巡らされ、その外に腰曲輪が築かれ、横矢も掛けられている。主郭の北はⅥ郭で、その北側下方に水堀が残っているが、Ⅵ郭は倒竹地獄で進入は困難であり、また水堀の主要部は民有地の裏なので、東の道路から僅かにその姿を望むことが出来るだけである。この他、主要な堀切には現在車道が通っており、破壊を受けている。また、南端のⅤ郭の南や東には横堀や堀切が穿たれているが、車道建設に伴う改変も多い上、藪がひどく確認が困難である。片野城は堀跡がよく残るが、全体に藪は酷い方で、改変も多く見られ、少々残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.222292/140.214322/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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