SSブログ

羽生城(埼玉県羽生市) [古城めぐり(埼玉)]

DSC06437.JPG←城址碑の建つ古城天満宮
(2007年6月訪城)
 羽生城は、上杉謙信の関東攻略の前線基地となった城である。元々は天文年間(1532~55年)に古河公方足利晴氏の家臣広田式部大輔直繁・木戸忠朝の兄弟によって築かれた。1552年、小田原北条氏が羽生城を攻め落とし、中条出羽守が城代となった。1560年、上杉謙信が初めて越山して関東に進撃すると、羽生城も攻め落として直繁・忠朝兄弟に城を与え、以後羽生城は謙信の関東攻めの最前線基地となった。翌61年、忍城の成田下総守長泰に対する守りを固める為、謙信は皿尾城を築いて木戸忠朝(監物入道玄斎)を皿尾城主に移した。1568年、武田信玄の駿河侵攻によって甲相駿三国同盟が破棄されると、北条氏康は信玄に対抗するため、上杉謙信と越相同盟を結んだ。同盟中の1570年、直繁は館林城へ移され、代わって弟忠朝が羽生城へと入った。その後、越相同盟は実効性に乏しかった為、1571年、氏康の死とともに同盟が破棄され、再び北条・武田両氏の間に甲相同盟が結ばれた。これによって関東の野は再び北条・上杉両勢力の抗争の場となった。しかし北条氏は着実に勢力を拡張し、遂に1574年、謙信は越後と遠い羽生城を放棄・破却し、忠朝以下の城兵を上野膳城へと移した。翌75年、羽生城は北条氏麾下の忍城主成田下総守氏長が支配し、その一族成田大蔵少輔長親が羽生城代となった。1590年の小田原の役の際には、時の羽生城代善照寺向用斎は氏長の命により、羽生城を捨てて忍城に籠城した。北条氏と共に成田氏が滅亡すると、関東に入部した德川家康の重臣大久保忠隣に羽生城が与えられた。忠隣は後に父忠世の死により小田原城主となり、羽生城主を兼務したが、1614年、忠隣が改易されると羽生城は廃城となった。その後も遺構は残っていたらしいが、幕末の1867年に羽生陣屋が新たに構築された際、城跡は悉く破壊されたと言う。

 羽生城は、沼地に面した平城で、浮島のように曲輪が連なる城であったらしい。古絵図によれば、主郭を中心に円弧状に幾重にも曲輪が取り囲む縄張りで、平地続きの南と南西にも沼が外堀となって、天然の要害であった様である。現在は完全に市街化しており、遺構は完全に湮滅している。おそらく曙ブレーキ本社の敷地あたりに主郭があったのだろう。少し南の羽生市役所付近も城域だったと思われる。古城天満宮が建つ場所が天神曲輪跡と言われ、現在城址碑と解説板が建つ。また曙ブレーキから南西に少し離れて建っている高山稲荷は、以前は城山稲荷と呼ばれ、羽生城の西の外郭にあったらしい。いずれにしても、その姿はすでに地上から永遠に失われている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.175747/139.550164/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
nice!(12)  コメント(2) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 12

コメント 2

ゆず七味

アカシックレコードで観てもらったら沼城の羽生城に奥方と住んでいて小田原の役で忍城から豊臣連合軍のたくさんの旗が見えたそうです

ここまでは成田長親だったのか善照寺向用斎か?かと思うんですが…
その後領主になるも家臣の屋敷が襲われていると報せがあり救援に向かうも返り討ちにあい顔に槍傷を受け退却するも後日、人はなんとおそろしい生き物か…と言いながら西暦1596年に没したそうです。
じゃあ成田氏長?でも羽生城ではなく忍城に住んでいただろうし小田原の役では小田原城にいた事になっているし…観てもらっただけなのでよくわかりません。
あくまで仮説ですが成田氏長は普段から表向きは影武者を忍城に住まわせ小田原城に参陣したのも影武者だった。そして忍城にて籠城、指揮したのは成田氏長だったのでは…という素人の考えです。

by ゆず七味 (2020-09-13 13:12) 

アテンザ23Z

>ゆず七味さん
設定エラーでコメントに気付くのが大変遅れてしまいました。申し訳ありません。
アカシックレコードというものがあるんですね。初めて知りました。
滅亡した大名家の歴史は、埋もれてしまったものが多いので、実際のところはどうだったんでしょう?なかなか想像を掻き立てられますね。
by アテンザ23Z (2021-12-20 20:58) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント