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中居城(茨城県鉾田市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_0905.JPG←二ノ郭外周の横堀
 中居城は、大掾氏の庶流で鹿島氏の一族、中居氏の居城である。鹿島三郎政幹の3男四郎時幹がこの地に分封されて、中居氏を称した。当初時幹は、白鳥城を築いて居城としたが、勢力の拡大に伴って手狭となり、新たに中居城を築いて居城とした。その後、中居氏歴代の居城となり、東方に西山館、南方に新館を置いて備えを固めていた。1591年、佐竹氏による所謂「南方三十三館の仕置」によって、時の当主中居秀幹は、鹿島・玉造・行方・手賀・島崎・烟田等の鹿行地域各氏16名と共に常陸太田城で誘殺されて滅亡した。尚この時、敵に備えて壕掘作業をしていた領民達は、城主の死を聞くと作業を中止し、念仏を唱えて亡き領主を弔ったことから、その未完成の堀のこと念仏堀と名付けたと言う。

 中居城は、比高30m程の丘陵先端部に築かれた城である。個人の持ち山であるが、登り口に解説板が建ち、中に入ることができる。訪城した際、たまたま老夫婦が竹藪を伐採中であったが、遺構の探索を快く承諾いただけた。高齢化で整備が行き届かないせいか、かなりの竹藪地獄の城であるが、遺構はよく残っている。ひしゃげた菱形状の曲輪が城の中心で内部は切岸で2段に分かれ、東の高い方が主郭、西の低い方が二ノ郭となっている。2つの曲輪とも、外周を土塁で防御し、北東端と南西端に隅櫓台を築いている。これらの曲輪の周囲には延々と横堀が巡らされ、西辺で横矢のクランクがあり、また前述の隅櫓台周りでは横堀が鋭角に曲がって、櫓台上からの射角を稼いでいる。また主郭の東や北東に外郭があったらしく、現在曲輪部分は掘削されてほとんど湮滅しているが、周囲の横堀と土塁は残っている。しかしこの辺りは特に薮が激しく、念仏堀も確認が大変である。一方、大手虎口は南側にあり、特に主郭虎口には動線制約の竪堀が穿たれ、また横堀外周の土塁に繋がる土橋が架かるなど、中々技巧的な部分もある。今後、市が整備を代行するなどして、遺構を確認しやすくしてほしいものである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.083494/140.566399/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=_ort&vs=c1j0l0u0f0
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