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大倉城(長野県長野市) [古城めぐり(長野)]

IMG_3594.JPG←五重堀切の一部
 大倉城は、織田軍による善光寺一揆弾圧の舞台となった城である。元々は鎌倉時代の寛元年間(1243~46年)に小笠原信濃守長清が築城し、その9男長澄がこの地に分封されて大倉氏を称したと伝えられるが詳細は不明。確実なのは戦国時代からで、1513年頃には築城されていたらしい。上杉・武田両軍が争った川中島合戦の頃には、長沼島津氏の持ち城で、島津氏は長沼館(後の長沼城)を本拠とし、詰城の大倉城、大倉城の出城として手子塚城を領有して千曲川西岸一帯を支配していたと考えられている。1557年に葛山城が武田勢に攻め落とされると、上杉方の島津月下斎(貞忠)らは大倉城に撤退した。その後、善光寺平が武田氏の支配下となり、長沼城を奪われると、逐われた島津氏は上杉謙信を頼って越後に逃れ、大倉城は一旦廃城となった。1582年、織田信長の武田征伐によって武田氏が滅亡すると、川中島4郡は海津城に入った森長可の支配下となったが、その翌月にはその支配に反対する土豪・地侍層が、上杉景勝と手を結んだ芋川親正を大将として北信濃一向一揆を組織して蜂起した。一揆勢は、飯山城を囲む織田勢を包囲した後、大倉古城を再築して立て籠もる一方、親正ら兵8000は長沼城へ向けて進撃した。しかし一揆勢は森長可の織田勢に大敗を喫して四散し、残軍掃討戦を展開した長可の軍勢は大倉城を攻撃し、激戦の末に短時日で落城させた。この時、城兵はもちろん、女子供1000人余まで撫で斬りにし、更に逃亡した百姓は人質を取って還住させ、労働力の確保を図ったと『信長公記』に記載されている。

 大倉城は、鳥居川北岸にそびえる標高450m、比高95mの丘陵先端部に築かれている。連郭式を基本とした、比較的シンプルな縄張りの城で、山頂の主郭とその北側に土塁状の土橋で接続された井戸曲輪を有し、主郭前面には堀切を挟んで二ノ郭・三ノ郭を連ねている。二ノ郭は4段程に分かれ、最上段は物見台であったと考えられる。2段目には石積みも見られる。主郭や二ノ郭の側方部も石垣があるようだが、藪ではっきりしない。三ノ郭の前面も堀切を挟んで小郭があり、その前にも堀切が穿たれている。その先は採土によって失われているが、以前は段曲輪群があったらしい。この城の見所は、前述の井戸曲輪の西尾根に穿たれた五重堀切で、殊に1本目と5本目は圧巻の巨大堀切となっている。5本目の堀切は長い竪堀となって落ちており、見応えがある。更に西の尾根を辿ると、細尾根の曲輪の先にやはり大堀切が穿たれて背後を分断している。大倉城は、石積みは少ないが、尾根筋の分断を強く意識しており、臨戦的な縄張りである。
三ノ郭から見た曲輪群→IMG_3522.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.733657/138.282831/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世山城
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