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山方城(茨城県常陸大宮市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_3790.JPG←主郭~二ノ郭間の堀跡
 山方城は、上杉氏の一族山方氏の居城である。1407年に佐竹氏12代義盛が嗣子なく没すると、鎌倉公方足利持氏の干渉によって、翌08年に関東管領上杉憲定の次子龍保丸(後の義憲)が入嗣して佐竹氏を継いだ。この時、その後見として上杉一族の山方能登守盛利が、美濃国山方から常陸に入国して山方城を築いて居城としたと言われている。この義憲の入嗣が、その後100年に渡って佐竹氏を動揺させ続ける「山入の乱」の原因となった。山入の乱については山入城の項に記載する。その後、文明年間(1469~86年)に佐竹氏15代義治の5男政義の居城となり、政義は有力庶子家の東氏の祖となった。しかし、ほどなくして東氏は小里に移ったとも言われる。

 山方城は、久慈川西岸の比高30m程の段丘上に築かれている。段丘上の崖端城と西の高館山に築かれた詰城とから成る複合城郭である。まず主城部は、主郭(御城)、二ノ郭(中城)、三ノ郭(外城)で構成された連郭式の城で、主郭には現在模擬天守状の展望台が建っている。2段の平場から成っており、高い方は畑となっている。主郭から空堀を挟んだ二ノ郭も全面畑となっていて、土塁や腰曲輪が一部に残存している。更に空堀を介して三ノ郭が続き、三ノ郭内は畑と民家に変貌している。南に降る道沿いに堀跡の畑が確認できる。ここからやや西に離れて高館山の詰城が築かれている。この山城は比較的単純な連郭式で、南北に伸びた山稜上に幾つもの曲輪を連ねている。ほとんどは切岸で区画されているだけだが、一部に堀切や土塁があるものの小規模である。山中は少々荒れていて、土橋状の地形も遺構なのか、そう見えるだけなのか、少々はっきりしない。しかし各曲輪の虎口は比較的はっきりしている。想像していたよりははっきりとした遺構が残っているが、少々面白みには欠ける。
詰城の曲輪切岸→IMG_3674.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.634075/140.393708/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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