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麻績城(長野県麻績村) [古城めぐり(長野)]

IMG_4904.JPG←主郭背後の堀切
 麻績城は、この地の豪族服部氏が築いた城である。戦国時代の領主は服部清信で、山麓の古屋敷に居館を構え、その西側に麻績古城(虚空蔵山城)を構え、その守備を補強するために麻績城を築いたと推測されている。1553年、甲斐の武田信玄は苅谷原城、会田氏の虚空蔵山城(中ノ陣城)を破って筑摩北部地方に侵攻し、青柳城の青柳清長を降し、敵対する葛尾城主村上義清に属していた服部清正(清信の子)を麻績より追い払い、その後の麻績には青柳氏を入れて麻績氏を称させた。清正は、塩田城に立て籠もった村上氏の元に奔ったが、塩田城が落城すると村上氏と共に上杉謙信を頼って越後に逃れた。1582年、武田勝頼が織田信長に滅ぼされ、そのわずか3ヶ月後に信長も本能寺の変で横死すると、権力の空白地帯となった甲斐・信濃は小田原北条氏・三河徳川氏・越後上杉氏による争奪の場となり(天正壬午の乱)、筑北地方は上杉景勝の領有となって、景勝は旧領主の服部清正を麻績城に復帰させた。しかし信濃府中を奪還した小笠原貞慶が筑北に勢力を伸ばすと、上杉・小笠原両氏の争奪の地となり、服部氏は上杉氏に背いて小笠原氏に内応した。これを知った景勝は麻績城を攻め落として、清正を捕らえて処刑した。その後も抗争は続き、結局小笠原氏の支配下となった。

 麻績城は、麻績宿北方にそびえる標高943mの山稜上に築かれている。登山ルートは2つあるようだが、北西麓の搦手ルートが登頂比高も低く、早く登ることができる。直線上に配置された大きく4つの曲輪から成る連郭式の縄張りで、それぞれの曲輪を堀切で分断している。しかし三ノ郭も四ノ郭も、細尾根上の狭小な曲輪に過ぎない。二ノ郭に至ってようやく多少の広さを持つ。主郭は城内最大の面積を持つが、せいぜい小屋掛けが数棟あった程度の広さである。主郭の前面・側方には腰曲輪・帯曲輪が数段廻らされ、一部には小竪堀が落ちている。堀切については、主郭背後のものはしっかり普請されているが、それ以外のものは整形があまりしっかりしておらず、特に四ノ郭手前のものはわずかな窪地のようにしか見えない。しかしそれでも、全体としてははっきり城跡と分かる程度に普請はしっかりしている。一部の城郭関連サイトで「遺構にがっかり」と記載されていたのであまり期待していなかったが、これだけしっかりしていれば私的には十分である。これで不満足なようだと、秩父の小さな山城などとても行けないだろう。天険の浦山城など、比高400mも登ってささやかな遺構だけである。
 尚、この麻績城を新城とし、麻績古城を古い形態の城のように『日本城郭大系』では記載しているが、遺構を見ると戦国後期に主城であったのは麻績古城の方であるのは明らかである。あくまで麻績城は、天険に頼った最後の逃げ込み城の位置付けだったと思われる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.467767/138.044350/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世山城
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