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苅谷原城(長野県松本市) [古城めぐり(長野)]

IMG_5739.JPG←南東尾根の堀切と曲輪群
 苅谷原城は、鷹巣根城とも呼ばれ、海野氏の一族苅谷原五郎が築いた城と伝えられる。苅谷原氏が数代で断絶すると、太田道灌の一族とも言われる太田弥助という武士の居城となったとされる。戦国中期の1550年から松本平に侵攻を開始した甲斐の武田信玄は、小笠原長時の諸城を連年攻略し、1553年には深志城を拠点に筑北まで侵攻し、3日間の攻撃で苅谷原城を攻め落とし、塔ノ原城は自落、会田虚空蔵山城を放火した。その後、苅谷原城の城割りと鍬立てを行い、家臣の今福石見守を城主とした。これにより、苅谷原城は武田軍による筑北進出の橋頭堡となった。1582年に武田氏が滅亡し、その3ヶ月後に本能寺で織田信長が横死すると、筑北地方は小笠原貞慶と上杉景勝の間で激しい争奪の場となった。この時、苅谷原城は小笠原方によって制圧され、貞慶は一族の赤沢式部少輔を城代とした。しかし翌年、赤沢氏が塔ノ原城主海野三河守・小岩岳城主古厩因幡守らと共に謀叛を企てたことが発覚し、赤沢氏は切腹させられた。その後、苅谷原城には小笠原頼貞が入って守りを固めたことが知られる。その後の歴史は不明だが、1590年に小笠原貞慶が讃岐に移封となった頃に廃城になったと推測される。

 苅谷原城は、標高896.6mの城山に築かれている。南の尾根より登山道があるので、迷わず登ることができる。山頂の主郭を中心に、三方に伸びる尾根に堀切と尾根上の小郭群を連ねた縄張りで、あくまで詰城と言った趣の城砦である。主郭は小規模で多数の兵を籠めることはできない。また堀切もいずれも比較的小規模であるが、大手と思われる北東尾根には厳重に配置され、堀切から落ちる竪堀も長く伸びている。しかしその他の尾根の堀切はやや防備が貧弱である。この城は、斜面に多数の帯曲輪群が配置されているのが特徴的で、特に竪堀の左右に多数並んでいる。また城の中心からかなり離れた部分の尾根も、側方斜面に帯曲輪が配置されていることから、尾根上はほとんど自然地形ながらも馬場や外郭として機能していた可能性があり、それなりに広範囲に防備は固められていたことが伺われる。とは言え、全体的には少数の兵しか籠められない小城砦で、諸勢力の筑北制圧の橋頭堡となった城にしては、貧弱に感じられる。その縄張りの貧弱さ故に、武田勢が攻め落とした苅谷原城はここではなく、荒神尾城ではないかとする説も存在することを付記しておく。
竪堀沿いの帯曲輪群→IMG_5791.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.316111/137.982252/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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