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掻揚城(長野県松本市) [古城めぐり(長野)]

IMG_6044.JPG←主郭土壇付近の石垣
 掻揚城は、保福寺城とも言い、1502年に信濃守護小笠原長棟が築いて、小笠原信益斎を置いて守らせたと伝えられている。その後、1513年には小沢縫殿助が在番し、小笠原氏の直轄の城として度々城将が変わったらしい。後に苅谷原城主太田弥助の持ち城となって在番を置いたが、1553年に武田信玄によって北筑地方一円が支配されるようになると、その役目を終えた様である。1582年に武田氏が滅亡し、その3ヶ月後に織田信長も本能寺で横死すると、小笠原貞慶が信濃府中を制圧し、1590年にかつての在番の後裔小沢縫殿介に山麓の屋敷を与えて住まわせたと言う。

 掻揚城は、標高900m、比高100m程の山稜先端に築かれている。登り道は無いので、北東の斜面から適当に直登するほかはない。登っていくと斜面上に段々に築かれた帯曲輪群が現れる。主郭の前衛となる曲輪群で、数えたところ17段確認できた。多数の帯曲輪群が築かれるのは、苅谷原城や青柳城と同じである。尾根上の先端部に主郭を置き、堀切を挟んで南に二ノ郭を置いた小規模な城砦である。主郭後部には土壇があり、その周りや主郭の外周に石垣が僅かに残っている。往時は全周を石垣で防御していたようだが、現在はかなり崩れてしまっている。主郭は綺麗に削平されているが、二ノ郭は自然地形に近い。二ノ郭背後にも堀切があり、更に背後の尾根の先にもう1本堀切が穿たれて城域が終わっている。堀切はいずれも小規模だが、東斜面に長大な竪堀となって落ちており、特に主郭背後・二ノ郭背後の2本は、山麓まで至っている。また竪堀脇にも帯曲輪が多数築かれている。小城砦ながらも、長い竪堀や石垣は見応えがある。
山腹を貫通する長い竪堀→IMG_6087.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.310353/138.028364/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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