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覆盆子城(長野県松本市) [古城めぐり(長野)]

IMG_6132.JPG←二ノ郭と主郭堀切
 覆盆子(いちご)城は、召田城とも呼ばれ、この地の豪族会田氏の最期の地となった城である。会田氏は海野氏の一族で、峻険な虚空蔵山に虚空蔵山城・中ノ陣城等の城砦群(会田城)を築いて本拠としていた。1553年に武田信玄が小笠原長時を駆逐して北筑地方に侵攻すると、会田氏は武田氏に降ってその配下となった。そして会田小次郎が領主の時、一族の岩下監物(召田監物とも言われる)が覆盆子城を築いて城主となった。1582年に武田氏が滅亡し、その3ヶ月後に本能寺で織田信長が横死すると、信濃府中を制圧した小笠原貞慶がこの地に侵攻し、かつて父の小笠原長時に反旗を翻し、甲斐武田氏に鞍替えした諸豪を相次いで討伐し、会田氏もその標的となった。会田氏は、本城の会田城を捨て、覆盆子城に立て籠もって最後まで抵抗した。これは小県方面への連絡路と退路を確保するためと推測されている。当主会田小次郎広忠が幼少だったため、家老の堀内越前守が戦ったが、間もなく越前守は討死して城は攻め落とされた。広忠は逃れて青木村の十観山で自害し、会田氏は滅亡した。会田氏最後の「一期の城」ということで、いつしか覆盆子城と呼ばれるようになった。

 覆盆子城は、標高892m、比高200m程の山上に築かれている。明確な道はなく、北西の尾根に適当に取り付いて直答した。削平の甘い主郭を中心に北東・北西に数段の腰曲輪、主郭背後には浅い堀切を介して二ノ郭があるが、いずれの曲輪も普請はわずかで、ニノ郭などほとんどまともに削平されていない。その背後の曲輪も同様である。一方、大手筋と思われる北西の尾根にもそれと言われなければ分からない程度の浅い堀切が2条穿たれている。いかにも急造の城と言う感じで、普請は不完全・不徹底で、会田氏滅亡の城という歴史がなければ、ほとんど顧みられることはないだろう。尚、この地域の目の前には、本城のあった虚空蔵山がその威容を見せている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.345100/138.017528/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世山城
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