SSブログ

樋口城(栃木県宇都宮市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_6183.JPG←主郭南西部の堀と土塁跡
 樋口城は、鎌倉前期の1222年に宇都宮氏の家臣樋口主計頭が築いたと伝えられている。『姿川村史』によれば、1574年に武田勝頼の軍勢が下野に侵攻した際、逆面周防守・今泉但馬守・犬飼能登守・樋口主計頭政時・政成らが金崎ヶ原の武田勢に夜討をかけ撤退させたとされ、この際に樋口氏は更に追撃したがその後帰城しなかったため、樋口城は廃城になったとされている。この甲斐武田氏による下野侵攻の記事は『下野國誌』にもあるらしいが、武田氏の下野侵攻についてはその他の歴史には一切現れておらず、甚だ疑問である。客観的に見て、武田氏が本当に宇都宮領まで進撃していたとすれば、当然途中の足利長尾氏・佐野氏・皆川氏などと交戦して城を攻めているはずであるが、それらが一切歴史に残っていない。またこの時期は長篠合戦の前年に当たり、北条氏政との甲相同盟復活により東への懸念がなくなった勝頼の目は、専ら西の織田・徳川領に向いており、6月には遠江の要衝高天神城をも攻略している。これらのことから、1574年の武田氏の下野侵攻は、誤伝であると判断するのが妥当であろう。尚、地元の伝承では、1597年の宇都宮氏改易の際に、樋口の領主から、後に残る家臣団で樋口城の遺領を配分せよとの沙汰があったと言うことで、「7人衆」と言われた家臣団が土地を分け持って今に至っているということである。

 樋口城は、姿川沿いの氾濫原とその支流の合の田川に挟まれた低台地上に築かれた平城である。おそらく方形単郭居館であったと思われるが、現在は宅地化されており、御城・中城の地名が残っている。かつての主郭の民家の南西部に僅かに土塁と堀が残っているが、草木で覆われているので確認が難しい。また周辺を探索したところ、かつての主郭の北東角と思われる付近の民家内に祠のある土盛りが確認できたので、おそらく隅櫓か、少なくとも土塁の跡と推測される。この他は改変が激しいので確証はないが、城の東を流れる合の田川がいかにも外堀という感じで流れており、城下集落を守る外堀として機能していたことが伺われる。尚、城のある低台地の南端には星宮神社が建っているが、高台になっており(古墳跡か?)、南方への物見台として活用されたことは想像に難くない。民有地なので史跡指定が難しいのだろうが、何とか史跡として残していってほしいものである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.501633/139.838490/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 2

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント