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常陸太田城(茨城県常陸太田市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_6370.JPG←主郭北西部に見られる切岸
 常陸太田城は、常陸の戦国大名佐竹氏の歴代の居城である。その創築は、平安後期の天仁年間(1108~10年)に藤原秀郷の後裔である通延が太田郷の郷司職に就き、太田大夫と称して築館したのが始まりとされる。一方、佐竹氏は、八幡太郎源義家の実弟新羅三郎義光の後裔で、甲斐武田氏とは同族に当たる。義光が常陸に地盤を築いた経緯については、武田氏館の項に記載する。義光の長男義業が、大掾氏の一族吉田清幹の娘を妻に迎えて昌義を儲け、昌義は久慈郡佐竹郷の馬坂城に本拠を置いて佐竹冠者と称し、佐竹氏の初代となった。昌義の3男隆義は、太田通延を逐って太田郷に分家していたが、昌義の長男忠義が大掾氏を継いだため、隆義が佐竹氏の惣領を継ぎ、これ以後常陸太田城が佐竹氏の本拠となった。1180年に源頼朝が平氏追討に挙兵すると、平氏との繋がりが強かった佐竹氏はこれに従わず、このため富士川の合戦で平家の追討軍を退け、坂東支配を進める頼朝の討伐を受けた。この時佐竹氏3代秀義は、本城の常陸太田城を捨てて、天険の要害、西金砂山に金砂山城を構えて立て籠もり、応戦した。結局、後の1189年に佐竹秀義は頼朝に降伏し、御家人に列して、常陸北部の旧領の領有を認められたが、鎌倉時代を通して佐竹氏は不遇の時代を過ごすこととなった。南北朝時代になると、佐竹貞義は終始一貫して足利尊氏に従って北朝方として常陸南朝方と交戦し、再びこの金砂山城の天険に頼って籠城戦を展開した。北朝方に与した結果、佐竹氏は常陸守護職を与えられ、鎌倉時代の不遇から一転、大きく勢力を伸ばすこととなった。室町時代中期に生起した佐竹一族の内訌「山入の乱」(山入城の項参照)では、佐竹氏の当主義舜は、山入氏義に10年もの間、居城の常陸太田城を逐われるなど厳しい時代を過ごしたが、後に反撃に転じて常陸太田城を奪還した。この義舜の時代に、一世紀にもわたった山入氏との抗争を克服し、家臣団を再編成して軍事力を増強し、失われた所領を回復したことから、義舜は「佐竹氏中興の祖」と言われる。義舜の子義篤が当主であった1529年、義篤の弟義元は兄の重臣小貫俊通の部垂城を攻め落とし、部垂城に移って部垂氏を称した。これ以後、「部垂の乱」と称される佐竹氏の内乱となった。1540年、佐竹義篤は部垂城を攻め落として部垂義元を滅ぼし、ようやく内乱を鎮定した。義篤の子義昭の時には、宿敵江戸氏と和議を結んで、北と南へと大きく勢力を拡張し、また急速に勢力を伸ばしてきた小田原北条氏に対しては上杉謙信と手を結ぶことで対抗した。義昭の子義重は、「鬼義重」と呼ばれる勇将で、父に引き続いて勢力を四囲に伸ばし、小田氏の勢力を駆逐し、陸奥白川領や下野那須領を蚕食し、北条氏の勢力とも対峙した。しかし1582年、甲斐武田氏・織田信長の相次ぐ滅亡によって、北条氏の北関東への侵攻を阻むものはなくなり、佐竹氏も守勢に立たされることとなった。1584年、義重は豊臣秀吉と連携して、北条氏と下野沼尻の合戦で対陣した。沼尻合戦は、徳川家康と同盟していた北条氏との対峙であり、中央の小牧・長久手の戦いと連動した戦いであった。一方、義重は、2男義広を会津葦名氏に入嗣させ、伊達政宗とも対立した。1589年、摺上原の合戦で政宗が葦名氏を滅ぼすと、陸奥南部の諸大名は伊達氏に服属し、佐竹氏は南からは北条氏、北からは伊達氏に挟まれ、滅亡の危機に立たされた。しかし1590年、かねて関係の深かった豊臣秀吉が北条氏を滅亡させると、一転佐竹氏は常陸一国の支配権を認められた。この時義重は、既に家督を嫡男義宣に譲っており、義宣は秀吉の権威を背景に常陸南部に侵攻し、水戸城を攻略して江戸氏を滅ぼした。また翌91年、義宣は「南方33館の仕置」と呼ばれる陰惨な謀略によって、常陸南部の国人領主を一気に殲滅し、常陸一国の支配権を確立し、水戸城に居城を移した。これ以後、常陸太田城は義重の隠居城となった。1600年の関ヶ原の戦いでは、石田三成と懇意であった義宣は曖昧な態度に終止し、戦いを傍観した。その結果、1602年に突如出羽秋田への国替えを言い渡され、佐竹氏は常陸を去った。佐竹氏の移封に伴い、常陸太田城は廃城となった。

 常陸太田城は、里川と源氏川に挟まれた比高20m程の南北に細長く伸びた段丘上に築かれている。現在は市街化が進み、遺構は完全に湮滅している。『図説 茨城の城郭』によれば、東西に分かれた主郭(西郭・東郭)、その南に二ノ郭、北に三ノ郭・北郭を並べた縄張りであったらしい。主郭西郭は現在の太田小学校に相当する。主郭東郭は住宅地になっており、かなり変わり果てており、その外形を追うことも難しい。二ノ郭・三ノ郭も同様である。北郭は太田第1高校になっている。いずれの曲輪も相当な広さがあり、さすがに佐竹氏の本拠だけのことはあり、近世城郭並みの広大な曲輪となっていた様である。僅かに三ノ郭北辺の道路が堀跡の名残を残し、また城域西側は急崖が残っており、往時の切岸であったことを伺わせる。段丘上の要害で、城の歴史を残すのは、太田小と若宮八幡宮に建っている2つの城址碑と、「中城町」の地名ぐらいであるのは残念でならない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.545794/140.519943/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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