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藤沢城 その2(栃木県栃木市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_6577.JPG←姿を現した空堀の横矢掛かり
 以前に当ブログにおいて速報として紹介したが、5月にたまたま通りかかったところ、藤沢城の案内板が道路脇に出ていて、城址が綺麗に整備されていた。そこで再訪録を掲載する。

<小曾戸図書之助の事績について>
 小曾戸家に残る上杉謙信からの感状を元にした話が、解説板に詳述されている。以下はその要旨である。
 島津大隅守盛忠の6代の孫小曾戸丹後守親治は、壬生氏に逐われ、曽祖父忠久の縁を頼って佐野氏に助けを求め、不摩城を預けられていた。親治の2男は梅沢隼人正を名乗り、梅沢館を築いて佐野氏の部将として活躍し、後に不摩城の出城として永野川の対岸に藤沢城を築いて、その城主となった。唐沢山城主佐野泰綱の娘は藤沢城主小曾戸摂津守行家に嫁し、兄豊綱の後を継いだ甥昌綱を後見し、その子図書之助も佐野家当主の昌綱をよく助けた。1559年、小田原の北条氏政は唐沢山城攻略を企図して侵攻した。病床の昌綱から急報を受けた図書之助は、手勢を率いて唐沢山城に入り、一切の指揮を委ねられた。決死の覚悟で防戦に努めた図書之助の働きにより持ちこたえる間に、謙信が直率する上杉勢が来援し、勝機を逸した氏政は大中寺住職の仲介で佐野氏を通じ、謙信と和睦を結ぶことになった。和議の場には、主君佐野昌綱と共に小曾戸図書之助も出席し、図書之助は氏政から全軍の前で、その武勇を大いに讃えられたという。

<遺構の現況>
 遺構は、基本的に城の周囲の空堀だけであるが、幾重にもクランクした横矢掛かりが見られ、戦国後期の築城技術が垣間見られる。遊歩道が空堀に沿って敷設されており、遺構をよく確認することができる。外周の南西部は「矢場」とされ、眼下を睥睨する物見台となっている。主郭は削平が甘く、全体に緩く傾斜している。この城では面白いことに主郭背後には堀がなく、斜面が続いているだけの様である。堀は、主郭の背後以外の3面に穿たれて防御を固めているが、埋もれているせいかかなり浅くなっている。

 この様に、埋もれていた城やその歴史が整備されて、我々の前に姿を表してくれることは嬉しい限りである。整備に尽力されている地元の方々の努力には、感謝の念を禁じ得ない。
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