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角田城(宮城県角田市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_6825.JPG←本丸南側に残る急斜面
 角田城は、江戸時代には伊達21要害の一、角田要害と呼ばれた城である。永禄年間(1558~69年)に田手宗光によって築かれた。田手氏は、伊達氏初代朝宗の6男宗綱に始まる伊達氏の一族で、元々伊達崎城主で伊達崎氏を称していたが、後に、本家の伊達氏と姓が似ているので、混同を避ける為に田手氏に改称したと言う。角田城が築かれた頃、隣接する伊具郡が相馬氏に攻略されると、宗光は伊達氏に叛いて相馬氏と通じたため角田城を逐われた。宗光の子宗時は、父に従わず伊達氏に留まっていたので、そのまま所領の相続を認められ、角田城主となった。1576年、伊達輝宗は相馬氏に占領されていた伊具郡奪還に乗り出し、8年間にわたる激しい抗争の結果、1584年に伊達氏の手に帰した。この相馬氏との戦いの中で、宗時は1582年に討死した。1591年、伊達政宗が岩出山城へ移封となると、伊達成実が二本松城から角田城に移された。しかし1595年、成実は突如伊達家から謎の出奔をし、角田城は政宗の命を受けた屋代景頼によって接収されたが、成実の家臣団は城に籠もって抵抗し、羽田右馬助ら30余名が討死した。その後しばらく城主不在となっていたが、1598年、政宗の叔父に当たる石川昭光が角田城主となった。石川氏は、元々奥州の独立した小大名であったが、伊達晴宗の4男昭光を養子に迎えていた。1590年、小田原の役に不参の故を以って豊臣秀吉の奥州仕置で改易され、伊達氏を頼ってその家臣となった。江戸時代には伊達一門筆頭となり、伊達家家臣団中において最高の家格を保った。角田城は、元和の一国一城令で角田要害となり、石川氏の居館として幕末まで存続した。

 角田城は、比高10m程の丘陵上に築かれている。現在は、城の主要部は角田高校・角田中学に変貌し、周囲の外郭も市街化されて遺構はほとんど湮滅している。しかし地勢は残っており、本丸のあった角田高校は段丘上にあり、周囲には往時の切岸を思わせる斜面で囲まれている。また城の外周を囲んでいた堀も、僅かな水路としてその痕跡を残している。昭和20年代後半の航空写真を見ると、外周の水堀がはっきりとその形を残し、南の出丸も明瞭であるので、高度成長期における城址の破壊が惜しまれる。

 尚、現在市の郷土資料館となっている旧氏家邸には、角田城の移築門が残る他、邸宅も角田城の用材で建てられたとの伝承があるとのことである。また庭にある灯籠も角田城のものとされるなど、文化財として貴重である。大正時代の古いガラスがそのまま残っているというのも非常に珍しい。入館無料なのに、貴重な解説まで聞かせていただけるので、角田城訪城の際は寄った方が良い。
外周に残る堀跡の水路→IMG_6817.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.968561/140.778186/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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