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古川城(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_6981.JPG←水堀跡の水路
 古川城は、大崎氏の家臣古川氏の居城である。最初は大崎氏7代教兼の第6子(名は不明)が初めて居を構えた地と言われる。その後裔が古川氏となったとされるがその系譜は不明点が多い。いずれにしても、戦国時代には古川刑部持慧・古川弾正忠隆の居城となった。持慧は、1534年の大崎氏の内訌の際、泉沢城主新田安芸頼遠に与して大崎義直に対して叛乱を起こし、古川城は反義直方の拠点となった。伊達稙宗が義直を助けて大崎領に攻め込むと、伊達勢は師山城を拠点に古川城を攻撃し、古川城は落城し持慧は自刃した。1586年、大崎義隆の寵童新井田刑部と伊庭野惣八郎の争いによって、大崎家中を二分する戦いに発展すると、伊達政宗は内紛平定を名目として大崎領内へ侵攻した(大崎合戦)。この時、古川城主古川忠隆は義隆方に与して師山城に籠り、伊達勢と対峙したと言う。1590年の豊臣秀吉による奥州仕置で、大崎氏が改易されると、大崎領は秀吉の家臣木村吉清・清久父子に与えられ、古川城には清久が入城した。しかし木村氏による圧政によって葛西大崎一揆が勃発し、乱は伊達勢によって鎮圧されたものの木村氏は一揆勃発の責任を問われて失脚した。一揆平定後、葛西・大崎領は伊達政宗に与えられ、古川城には重臣の鈴木和泉守元信を置いた。以後鈴木氏3代に渡る居城となったが、1645年、3代宗良の時に桃生郡深谷に転封になると、古川は仙台藩の直轄領となり、古川城は廃城となった。

 古川城は、古川の街の中心部にあった平城で、現在の古川第一小学校の敷地に本丸があった。また本丸の北・西・南の3面を取り囲むように二ノ丸(二ノ構)があり、その南に三ノ丸(西館)があった様だが、現在は市街化でほとんどの遺構が湮滅している。小学校の正門前に建っている解説板によれば、昔は小学校の正門脇に土塁が残っていたらしいが、それも今では失われている。小学校の東側に水路(緒絶川)が流れているが、これが城の外堀の痕跡であろう。結局これが唯一の遺構であり、あとは各所の地名に城の名残を思わせるだけである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.577544/140.953453/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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