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名生城(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_7208.JPG←内館周囲の空堀
 名生城は、奥州探題大崎氏の居城の一つとされている。大崎氏は、足利氏の庶流斯波氏の流れをくむ名門で、南北朝時代に越前守護として活躍した斯波高経の弟家兼が、奥州を押さえるために下向したことに始まる。斯波氏は、鎌倉時代には足利尾張家と称され、足利の姓を名乗り、足利一門の中でも最高の家格を持っていたが、尊氏が将軍となって室町幕府を開くと、足利の名乗りを禁じられて斯波氏を称したと考えられている。後に3代将軍足利義満が幕府の典礼を定めた際に、斯波氏は三管領家の一つと定められた。一方、家兼は、幕府草創期は若狭守護に任じられ、越前守護の兄高経と協力して新田義貞を滅ぼすなど功績を挙げたが、足利一族の内紛、観応の擾乱が生起すると足利直義方に付いた高経と袂を分かち、尊氏方として活躍した。この頃奥州には、既に奥州管領(後の奥州探題)として尊氏派の畠山国氏、直義派の吉良貞家が派遣されており、1351年、観応の擾乱の余波で岩切合戦が起こり、畠山国氏は吉良貞家に攻められて岩切城で討死した。その2年後に貞家が没すると、幕府は斯波家兼を新たに奥州管領として派遣した。しかし、畠山氏の遺児国詮が管領を主張して活動を始め、奥州総大将だった石塔義房の子義憲が鎌倉から奥州に入り、また吉良貞家の跡を継いだ吉良満家も管領を主張し、いずれも足利一族の四管領が並立するという、混沌とした状況となった。しかし斯波氏が最終的に勝利を収め、唯一の奥州探題となった。そして大崎五郡を支配して大崎氏を称し、奥州の大名・国人衆への室町将軍の命令や幕府の賦課の徴集などは全て大崎氏を通じて行われ、奥州の支配権力の頂点に位置していた。また家兼の次男斯波兼頼は羽州探題(出羽按察使であったとも言われる)として出羽に移って最上氏の祖となり、出羽へもその影響力を保持した。しかし大崎氏の支配力は決して盤石ではなく、依然として奥州の有力大名・国人衆は独立性を保っていた。戦国時代になると南の伊達氏が勢力を伸ばし、一方、大崎氏は一族・家臣の内紛で勢力を弱めた。1525年に伊達稙宗が陸奥守護に任じられると、奥州探題の権威は完全に失墜し、大崎氏は一地方大名と化した。戦国末期には重臣の争いが元で伊達政宗による干渉を許し(大崎合戦)、伊達勢を撃退したもののその凋落は覆うべくもなかった。結局、1590年に豊臣秀吉の奥州仕置によって、小田原不参の故を以って改易された。その後、旧臣達が葛西大崎一揆を起こしたが鎮圧され、葛西・大崎領が伊達政宗に与えられると、大崎氏再興の夢は完全に潰えた。

 この様に大崎氏は改易されてしまったため、その詳細な歴史も多くが失われてしまい、大崎氏の居城についても必ずしもはっきりしていない。どうも南北朝期から戦国末期に至るまでの間に幾度か居城を移したらしく、名生城の他にも師山城中新田城小野城などが居城であったと言われ、大崎五御所などという名も伝えられているが、諸説あってはっきりしないのが実情である。現地解説板によれば、葛西大崎一揆後に政宗に岩出山城を引き渡すために派遣された徳川家康が名生城に立ち寄ったとされ、その後の文献に現れなくなった事から、間もなく廃城になったと考えられている。

 名生城は、渋井川西岸の段丘上に築かれている。城内は、大館・小館・内館・北館・二ノ構・三ノ構・軍議評定所丸の7郭に区画されている。殆どの部分が耕地化で改変され、それ以外は宅地化されているなど、遺構の残存状況はかなり断片的である。それでも道路沿いに堀跡の水田が見られ、また軍議評定所丸等の土塁も一部に残存している。一番良好に残っているのは、内館周囲の空堀で、薮の中に往時そのままの姿を残している。冬場に探せば、もう少し遺構が確認できるかもしれないが、おそらくいずれも断片的であろう。歴史とともに遺構も多くが失われているのが残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.611774/140.895710/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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