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岩出山城(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_7371.JPG←北辺の大きな横堀
 岩出山城は、伊達政宗の左遷城として知られる。元の名は岩手澤城と言い、奥州探題大崎氏の重臣氏家弾正が応永年間(1394~1427年)に築城して居城としたと言われている。氏家氏は元々下野の名族宇都宮氏の庶流で、下野を本領としていた。その一族氏家重定が越中に移り、その後、南北朝初期に斯波氏の麾下で活躍し、斯波家兼が奥州管領(後の奥州探題)として派遣された際に、家兼に従って重定の一族氏家弾正詮継が監司として奥州に下向したと言われている。詮継の名は、確証はないが足利尊氏の嫡男で2代将軍となった義詮の偏諱であろうから、足利尊氏・義詮父子に相当近い位置にいたと思われる。いずれにしても奥州下向後に斯波氏(大崎氏)の重臣となって活躍した。ちなみに家兼の次男兼頼が羽州探題として山形に移った時も、氏家氏の一族が執事となって同行し、後の戦国後期に最上義光の側近中の側近、氏家守棟を輩出している。奥州氏家氏の当初の居城は杉ノ沢館であったと言われ、前述の通り応永年間(1394~1427年)になって岩手澤城を築いて居城を移したとされる。1534年、大崎氏家臣で泉沢城主新田安芸頼遠が大崎義直に反乱を起こすと、氏家直益は新田方に与した。義直は伊達稙宗に援軍を求め、1536年にようやく反乱軍の最後の拠点岩手澤城を落とし、乱の首謀者である新田安芸は出羽に落ち延びて、反乱を平定した。1586年、大崎義隆の寵童、新井田刑部と伊場野惣八郎との争いを発端に、再び大崎氏家中の内乱が発生した。新井田刑部は義隆を自身の居城新井田城に強制的に軟禁して名目を固め、伊場野惣八郎を保護した氏家弾正吉継を討とうとした。窮した吉継は、片倉景綱を介して伊達政宗に援軍を要請し、大崎合戦と呼ばれる伊達勢による大規模な軍事介入を誘発した。伊達勢は大軍であったが、急な大雪によって大敗し、氏家氏も岩手澤城から出撃したものの伊達勢と合流できずに終わった。その後、大崎氏と伊達氏との間で和議が結ばれた。1590年の奥州仕置で大崎氏が改易になると、氏家氏は伊達氏に仕えた。大崎領は豊臣秀吉の家臣木村吉清に与えられ、木村氏の家臣萩田三右衛門が岩手澤城主となった。三右衛門は暴政を行い、一揆蜂起で殺害された。これが発端となって葛西大崎一揆が発生した。一揆鎮圧後、1591年に伊達政宗は米沢領を没収され、替わって大崎・葛西の旧領を与えられた。この時、奥州にいた徳川家康は、豊臣秀吉の命を受けて岩手澤城に入り、政宗のために榊原康政に縄張りさせて城を改修し、政宗は岩手澤城に居城を移した。そして城の名を岩出山城に改めた。以後、12年に渡ってここを居城としたが、実際には京に居たり、朝鮮出兵のため肥前名護屋城に居たりと、実際の在城期間は通算で数ヶ月に過ぎず、政宗不在の間は屋代景頼が代官として統治した。関ヶ原合戦の後、政宗は1603年に仙台城を築いて居城を移した。その後、4男宗泰を岩出山城主とした。元和の一国一城令で城の名を去って岩出山要害と称し、そのまま岩出山伊達氏の居城として幕末まで存続した。

 岩出山城は、標高107m、比高50mの城山一帯に築かれている。馬蹄形をした山稜全域を取り込んだ広い城域を有している。政宗の居城として有名なので、ほとんどの部分が城址公園として整備されている為、返って公園化による改変を受けてしまっている部分も多い。中世城郭と近世城郭の過渡期の縄張りを持つ城で、東の山稜上に長い本丸を置き、南に出丸、本丸の西側下方に二ノ丸を置いている。出丸の背後には土橋の掛かった堀切があり、大土塁と虎口が築かれて本丸に通じている。この虎口は「内門」と呼ばれ、脇に見られる石垣は遺構であるらしい。南出丸から一旦二ノ丸に降り、その南の先にも堀切を介して曲輪が2段連なっている。特に下の曲輪は土塁を伴って広い。二ノ丸は何段かに分かれた細長い曲輪であるが、公園化による改変が多く、往時の形状がわかりにくい。二ノ丸の北にも堀切を介して外郭が広がっている。外郭は城内最大の曲輪で、南端には八幡平という出丸があり、土壇に祠が祀られている。これは家康が縄張りした際に使用した器具類を埋めたものと伝えられている。外郭には北辺に延々と土塁が築かれ、その北側下方に大きな横堀が穿たれている。外周の横堀による防御構造などは、伊達氏の城らしい特徴と考えられる。また堀切を介して北にも出曲輪が確認できる。馬蹄形の山稜の内側は、現在小学校と高校が建っているが、広い内古屋で、近世の主殿が建っていたことは想像に難くない。一方、本丸の東斜面にも現在駐車場になっている曲輪が広がっている。さすがに岩出山城は、一時期とは言え近世の大大名が本拠とした城だけあって、見どころが多い。ただ欲を言えば、公園内に遺構の標柱などがなく、城の知識のない人には何が何だかさっぱりわからないだろう。もう少し丁寧な案内があればと思った。それはともかく、もう数年前から行こう行こうと思っていた念願の城に、ついに行くことができたので嬉しい限りであった。もう一度、藪のない時期に行ってみたい。
内門の大土塁と石垣→IMG_7257.JPG
IMG_7368.JPG←外郭の土塁
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.655706/140.862665/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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