板橋城(茨城県つくばみらい市) [古城めぐり(茨城)]
←堀切跡の様に見える窪地
板橋城は、牛久城主岡見氏の支城である。天正年間(1573~92年)後半に岡見治広が小田原北条氏に提出したとされる『岡見氏本知行等覚書』によれば、岡見氏の属城として、本拠の牛久城の他に東林寺城、谷田部城、足高城、板橋城があり、板橋城は岡見氏の家臣月岡上総介が城主であったと記載されている。史実不詳ながら、伝承では1587年に下妻城主多賀谷重経によって攻撃され、月岡氏は開城降伏したとされる。それ以外の歴史についても、伝承はあるが虚実不明であるため、ここには記載しない。
板橋城は、小貝川・中通川水系の氾濫原に面した台地の縁に築かれている。板橋不動尊(不動院)から南西と西に伸びる台地を城域としていたらしく、おそらく板橋不動尊も外郭の中に取り込まれていたのだろう。城内は宅地化が進んでおり、遺構は湮滅している。僅かに土塁状の土盛りや堀状の窪地が散見されるに過ぎず、これらが遺構であるどうかもわからない。城跡より何より、板橋不動尊の伽藍が素晴らしく、そちらを主目的で行った方が良い。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.979204/140.049677/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
板橋城は、牛久城主岡見氏の支城である。天正年間(1573~92年)後半に岡見治広が小田原北条氏に提出したとされる『岡見氏本知行等覚書』によれば、岡見氏の属城として、本拠の牛久城の他に東林寺城、谷田部城、足高城、板橋城があり、板橋城は岡見氏の家臣月岡上総介が城主であったと記載されている。史実不詳ながら、伝承では1587年に下妻城主多賀谷重経によって攻撃され、月岡氏は開城降伏したとされる。それ以外の歴史についても、伝承はあるが虚実不明であるため、ここには記載しない。
板橋城は、小貝川・中通川水系の氾濫原に面した台地の縁に築かれている。板橋不動尊(不動院)から南西と西に伸びる台地を城域としていたらしく、おそらく板橋不動尊も外郭の中に取り込まれていたのだろう。城内は宅地化が進んでおり、遺構は湮滅している。僅かに土塁状の土盛りや堀状の窪地が散見されるに過ぎず、これらが遺構であるどうかもわからない。城跡より何より、板橋不動尊の伽藍が素晴らしく、そちらを主目的で行った方が良い。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.979204/140.049677/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世崖端城
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