鷲宮砦(茨城県八千代町) [古城めぐり(茨城)]
←堀跡とされる窪地との段差
鷲宮砦は、南北朝時代に北朝方の武将、高師冬が築いた砦と伝えられている。1338年、北畠顕家・新田義貞らの相次ぐ戦死により、吉野の後醍醐天皇は各地の南朝勢力の再建が喫緊の課題となった。そこで重臣の北畠親房を常陸に降し、坂東の地において南朝勢力の結集を図った。常陸には小田氏など南朝方に残っている武家が多く、これを頼りとしたのである。一方、足利尊氏はこうした常陸での蠢動を抑えるため、1339年、執事高師直の一族、高播磨守師冬を鎌倉府執事として関東に下向させ、師冬は南朝討伐のため関東各地を転戦した。そして南朝方の拠る駒城を攻撃するため、この鷲宮砦を築いたと言われている。1340年5月、師冬は猛攻により駒城を攻略したが、間もなく総反撃に出た南朝方によって八丁砦等の周辺城砦と共に鷲宮砦を奪還されたと伝えられている様だ。
鷲宮砦は、現在鷲神社の境内となっている。周囲より僅かに高い微高地で、堀跡とされる窪地も見られるが、城砦らしさはあまり感じられず、本当に遺構かどうかははっきりしない。神社の解説にも一切砦のことは触れられていない。皇国史観の支配していた戦前には北朝方は賊軍とされたので顧みられることがなく、南朝方の駒城と違って何らの碑も建っていないのが残念である。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.183905/139.909580/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
鷲宮砦は、南北朝時代に北朝方の武将、高師冬が築いた砦と伝えられている。1338年、北畠顕家・新田義貞らの相次ぐ戦死により、吉野の後醍醐天皇は各地の南朝勢力の再建が喫緊の課題となった。そこで重臣の北畠親房を常陸に降し、坂東の地において南朝勢力の結集を図った。常陸には小田氏など南朝方に残っている武家が多く、これを頼りとしたのである。一方、足利尊氏はこうした常陸での蠢動を抑えるため、1339年、執事高師直の一族、高播磨守師冬を鎌倉府執事として関東に下向させ、師冬は南朝討伐のため関東各地を転戦した。そして南朝方の拠る駒城を攻撃するため、この鷲宮砦を築いたと言われている。1340年5月、師冬は猛攻により駒城を攻略したが、間もなく総反撃に出た南朝方によって八丁砦等の周辺城砦と共に鷲宮砦を奪還されたと伝えられている様だ。
鷲宮砦は、現在鷲神社の境内となっている。周囲より僅かに高い微高地で、堀跡とされる窪地も見られるが、城砦らしさはあまり感じられず、本当に遺構かどうかははっきりしない。神社の解説にも一切砦のことは触れられていない。皇国史観の支配していた戦前には北朝方は賊軍とされたので顧みられることがなく、南朝方の駒城と違って何らの碑も建っていないのが残念である。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.183905/139.909580/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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