SSブログ

村田城(宮城県村田町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_8182.JPG←本丸背後の横堀
 村田城は、伊達氏の家臣村田氏の居城である。伝承では、室町中期の嘉吉年間(1441~44年)に、下野の名族小山氏の一族小山九郎業朝が、結城合戦で敗れて下野国小山郷よりこの地に移住し、村田氏を称して伊達氏の家臣となり、館を築いたとされる。6代紀伊守近重は、伊達氏の内乱「天文の乱」の時、晴宗方に付いた。近重には嗣子がなく、伊達稙宗の9男宗殖を養子として跡を継がせた。宗殖は後に仏門に入り万好斎と号したが、1591年12月に領地を没収され、桃生郡長井に移った。尚、同年9月には、ここで伊達政宗の庶子秀宗(後の宇和島城主)が生まれている。その後、村田郷は伊達家の直轄領(御蔵入地)となり、城代として家臣の後藤三郎右衛門が置かれた。その後、1605~12年は伊達一門の石川昭光が在城した。1613年、政宗の7男宗高がわずか7歳で村田城主となり、3万石を領したが、1626年に20歳の若さで天然痘で病死した。宗高の時代に一国一城令で城の名を除き、村田館となり、宗高の死後、再び伊達家直轄領を経て、1629年に奥山大学常良が館主となった。その後、度々の館主の変遷を経て、幕末まで存続した。

 村田城は、村田町役場と村田第一小学校の背後にある標高54m、比高30m程の丘陵上に築かれている。現在は城山公園となっており、ほとんどの部分が綺麗に整備されており、夏場でも訪城可能である。但し公園化の代償として、一部改変を受けている。V字状の丘陵頂部に方形に近い形状の本丸を置き、周囲には腰曲輪、南東尾根に二ノ丸、北東尾根に三ノ丸を築いている。本丸の西端には大土塁が築かれ、背後には延々と横堀が穿たれている。この横堀は、本丸西側の腰曲輪の背後まで続き、堀切に合流して終わっている。堀切にほど近い部分には竪堀も見られる。堀切は、城の北西続きの尾根上に2本穿たれ、2本の間の曲輪には現在乾八幡神社が鎮座している。V字の尾根の間の低地には居館が置かれていたことは、容易に想像がつく。現在の町役場・小学校の位置に当たる。往時はここに大手門があったが、門だけ近くの願勝寺に移築されている。縄張りとしては大した技巧性はなく、基本的には腰曲輪群で構成された素朴な縄張りの城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.118436/140.720766/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 5

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント