SSブログ

狼塚城(宮城県加美町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_8543.JPG←西辺部の土塁と堀跡
 狼塚城は、上狼塚館とも呼ばれ、大崎氏四家老の一人里見紀伊守隆成の居城である。紀伊守の名は大崎合戦でも現れており、斜陽の大崎氏を支えた武将の一人であった様である。
 狼塚城は、慈恩院の北側に築かれている。低地帯に浮かぶ微高地にあり、城内は宅地化が進んでいるが、城の西辺部は最もよく遺構を残しており、林の縁に土塁と堀跡が確認できる。城址標柱は非常にわかりにくいところにあり、慈恩院北に隣接する民家の入口(かなり奥まった所)に立っているのを後日見つけ出した(初回訪城時は発見できなかった)。尚、慈恩院には里見紀伊守の墓が建っているが、本当の墓は本堂の須弥壇の下にあると言う。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.579155/140.869639/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
nice!(4)  コメント(2) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 4

コメント 2

旧姓 鈴木敦子  札幌在住

突然の投稿失礼致します。 2017 12月21日に82歳の父が亡くなってしまいましたが、亡き父や叔父達の三代前(前後)から中新田城の城跡に父の先祖一族が住み着いたと聴いておりました。父が小学生の頃に慈恩寺にて鈴木家の家系図 巻物を見せてもらった。や、城の堀後や小さな塚があり、従兄弟達と塚を掘ると子供心に土器?(時代は不明)っぽい物が沢山出た。戦国時代からの言い伝えなど、幼少の叔父たちが慈恩寺の住職から話を聞いていたらしく、父方の親族が集まると中新田城の城跡の言い伝えを耳にしてました。私も幼い頃に祖父母の家に行った記憶があったので、父の戸籍謄本を元に私個人で中新田城の城後が何処か調べましたら「中新田城」ではなく、「狼塚城跡地」にたどり着きました。狼塚城跡地は私の祖父 鈴木三樹三郎(分家)が住んでおりましたが、祖父は若くして亡くなり、祖母や叔父達は昭和37・8年頃、函館に移住(夜逃げ)。現在は荒地となったままと聞いております。城の名前は刻まれていなかったのか?幼い頃の父兄弟や従兄弟たちが読めなかったのか?解りませんが、亡き父や叔父たちの話では【城跡】と刻まれた小さな石標があったと聞いています。おそらく、荒地と化した草木に覆い隠されていることでしょう。城跡の内堀に鈴木一族が住み着いたとあって【門前】やら【うっだて?←宮城なまり】【慈恩寺】【大本家】【分家の分家】【〇〇叔母は古川に嫁に行った】【堀跡】【狼塚と言うと出前を断られる(笑)】などなど、亡き父や叔父たちの会話に生前 飛び交っておりました。現在、詳しい親族は世代も若くなり詳しい事を知る者も居ないようです‥【慈恩寺】には【狼塚城は、伊達政宗に落城され亡くなった中新田城 城主の父城】などの言い伝えが語り継がれているのでは?と私も今になって知りたくなり、ネットで此方にたどり着きました。亡き父叔父、大本家の先祖も産まれ育った土地が【中新田城跡】ではなく【狼塚城跡地】と知って驚いていることかと思います(笑)私としても、幼い時に遊んだ記憶がある土地でしたので、最後の狼塚城 城主の名前を知る事ができました事に感謝致します。有難う御座いました。
by 旧姓 鈴木敦子 札幌在住 (2018-02-03 04:05) 

アテンザ23Z

>旧姓 鈴木敦子さん
当ブログにご訪問いただきありがとうございます。また、面白いお話の数々をうかがわせて頂き、ありがとうございます。一方で、ご尊父様の訃報には謹んでお悔やみ申し上げます。

ご本人達が中新田城と思い込んでいた所が、実は狼塚城だったというのも驚きです。中新田城とは目と鼻の先にあり、歴史的に有名なのは中新田城なので、そのように誤解してしまったのかもしれませんね。

「うっだて」と言うのは「内館(うちだて)」の転訛でしょうか。そうだとしたら本丸跡に当たるのかもしれません。

夜逃げ(!)されたということですが、ご存知かもしれませんが国土地理院のHPで過去の全国各地の航空写真が見れますので、自分が幼い頃の街の様子を航空写真で見ることができ、とても面白いです。参照してみて下さい。
http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do
by アテンザ23Z (2018-02-03 13:15) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント