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中新田城(宮城県加美町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_8588.JPG←神社裏に僅かに残る主郭土塁
 中新田城は、奥州探題大崎氏の居城の一つとされている。大崎氏の事績については名生城の項に記載する。斯波家兼が奥州管領(後の奥州探題)となって奥州に下向し、最初に居城としたのが中新田城とも言われている(一説には師山城が最初とも)。その後大崎氏は居城を幾度か移したと見られ、12代大崎義直と13代義隆が中新田城を居城としたとされている。しかし義隆の時に名生城に居城を移したと言われ、その後は家臣南条下総守が城代として居城したと言う。1588年に大崎氏家中の内紛を機に伊達政宗による武力介入を許し、大崎合戦となった。南条下総守は中新田城に籠城し、留守政景・泉田重光を大将とする伊達勢を迎え撃った。伊達勢は中新田城を包囲したが、南条氏の巧みな用兵と堅守によって落とすことができず、折からの大雪によって伊達勢は撤退を余儀なくされた。これを見た南条氏は城から打って出て、殿を務めた侍大将小山田筑前を討ち取った。1590年、豊臣秀吉の奥州仕置によって、大崎氏は小田原不参の故を以って改易され、中新田城は廃城となった。藩政時代には2代仙台藩主伊達忠宗が領内巡察の際、城址に仮り舎を設けたことから「御仮屋」と呼ばれた。

 中新田城は、加美町市街北東の国道347号線と457号線が接続する交差点を中心とする一帯にあった。昭和20年代の航空写真を見ると、方形の主郭とその周りの堀跡が確認でき、更に外郭東側の外堀跡も明瞭であるが、現在はほとんど完全に湮滅している。残っているのは、多川稲荷神社の裏の主郭南東角の土塁と北側の外堀跡の水路ぐらいである。つい数年前まで主郭堀跡も低い畑になっていたようだが、それも現在では宅地となってしまっている。ほとんど城跡らしさを残さず、壊滅してしまっているのは残念でならない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.573703/140.859854/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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