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八幡館(宮城県多賀城市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1888.JPG←住宅地内に残る土盛り
 八幡館は、伝承では留守氏の祖伊沢家景の家臣、八幡兵庫の居館と伝えられている。八幡氏は代々留守氏に仕え、陸奥介を称して鎌倉幕府の御家人として宮城郡八幡庄内に地頭職を与えられていた。室町時代に入ると八幡介と称するようになったが、一説には平安後期以来の在庁官人の流れを汲む陸奥介平景衡の系統から、鎌倉前期にこの地に移住してきた保田景家の系統に取って代わられ、その際に名乗りを八幡介と称するようになったともされている。室町時代には、八幡氏は一時留守氏を凌ぐ勢力を持ち、留守氏と抗争することもあったが、戦国時代に入って伊達氏に服属した留守氏が勢力を回復すると、留守氏の家臣団に組み込まれた。戦国後期には八幡景廉と弟の下間業継が家督を巡って対立し、景廉が主君留守政景に事態収拾を訴え出ると、これを聞いた政景は激怒し、1578年、下間館を攻撃して業継を追放し、八幡氏の内訌を平定した。以後、八幡氏は安泰となり、景廉は政景に忠節を尽くすようになった。一方、追放された業継は、姉の嫁ぎ先である岩沼の泉田重光を頼って身を寄せた。このことが、大崎合戦の際に伊達勢を率いた留守政景・泉田重光2将の対立の遠因となったとも言われている。1590年、豊臣秀吉の奥州仕置によって、伊達氏と共に留守氏が所領替えとなると、八幡氏も留守氏に従って八幡の地を去った。

 八幡館は、砂押川南岸の比高10mにも満たない小丘陵に築かれている。丘陵上の主郭は現在配水場となっており、周囲一帯も完全に宅地化されており、地勢以外の遺構はほとんど残っていない。僅かに主郭の南の住宅地脇に、主郭南側の曲輪の一部と思われる土盛が残っているだけである。尚、付近には「末の松山」「沖の井」など、古今和歌集にも詠まれた史跡があるが、八幡館と何らかの関係があったのだろうか?

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.287579/141.001604/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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