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佐沼城(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_1909.JPG←本丸の天守台
 佐沼城は、葛西大崎一揆の際に伊達政宗による凄惨な掃討戦の舞台となった城である。城の歴史は必ずしも明確ではなく、伝説では奥州藤原氏の家臣照井太郎高直の居城であったとも言われるが、県内各地に同様の伝承があるので俄には信じ難い。南北朝時代には、鎮守府大将軍北畠顕家が摂州阿倍野で討死し、奥州軍が四散した後、奥州に戻った葛西氏が寺池城(保呂羽楯)と佐沼城を築いたと言われており、葛西氏の支城として築かれた。しかし室町中期には大崎氏の支配下に入り、天文年間(1532~55年)には大崎氏の家臣石川氏が城主であったと伝えられている。この城が明確に姿を表すのは、1590年の奥州仕置以後である。即ち、小田原不参の故を以って葛西・大崎両氏が改易となり、葛西・大崎の旧領は豊臣秀吉の家臣木村吉清・清久父子に与えられた。しかし木村氏の圧政によって岩手沢城での蜂起を皮切りに、「葛西大崎一揆」が勃発した。蜂起は燎原の火の如く瞬く間に領内全域に広がり、寺池城で父吉清と対策を協議した清久は、名生城への帰途、佐沼城で一揆勢に取り囲まれ、救援に赴いた吉清も佐沼城に包囲された。命を受けた伊達政宗により、吉清・清久父子は救出されたが、翌91年、一揆勢は佐沼城に立て籠もった。実はこの一揆は、政宗による煽動によって惹起されたものであり、それが露見しかかって秀吉への釈明に追われた政宗は、許されて秀吉の命で一揆鎮圧に向かうと、証拠隠滅を図るために佐沼城の一揆勢を女子供に至るまで撫で斬りにしたとされる。その後、一揆の主だった者達を謀略によって桃生郡須江山に呼び寄せ、残らず惨殺した(須江山の惨劇)。こうして証拠を残らず消し去った政宗は、出羽・会津の本領を没収されたが、一揆の責任を問われて改易となった木村氏に代わって、葛西・大崎の旧領13郡を与えられた。佐沼城には、出羽大橋城主湯目民部景康が移封された。景康は後に政宗の命で津田氏に改姓した。佐沼城は、藩政時代には佐沼要害と称され、津田氏は7代丹波定康の時代までこの地を領したが、1756年に改易された。津田氏の後には、高清水城より亘理伯耆倫篤が移封され、以後亘理氏の居館として幕末まで存続した。

 佐沼城は、迫川西岸の比高10m程の高台に築かれている。現在鹿ヶ城公園となっており、改変を受けているが、本丸部分はよくその形状を残している。梯郭式に近い環郭式の縄張りで、城の東側に偏した本丸を囲むように二ノ丸があり、更にその外周に三ノ丸が取り巻いていた。本丸は外周に低土塁が残り、東端に横矢張出しの大型の櫓台(おそらく天守台)を備えている。南東角にも隅櫓台が築かれている。本丸は広めで、十分な居住性があったと推察される。本丸の周りには大きな空堀が廻らされているが、残念なことにコンクリートの護岸で改変されてしまっている。しかし形は往時のままなので、城の雰囲気はよく残っている。二ノ丸・三ノ丸は市街化で改変され、二ノ丸部分がやや高くなっている以外、ほとんど形状を追うことができないが、往時は迫川周囲の沼地を水堀として取り込んだ、浮島の様な要害であったらしい。城の西側を流れる長沼川が外堀の役目をしていた様である。三ノ丸の北西端には独立性の高い丘陵地があり、西館と呼ばれている。津田家・亘理家の支配時代には各家の墓所となり、現在も両家の墓が残っている。西館は、それ自体が佐沼城西方を守る出城であり、高台上に堀切や横堀が残り、高台の北東下方にも横堀・土塁が築かれている。この下方の横堀は三ノ丸内にあることから、往時は城内通路を兼ね、土塁は城門を構成していたのだろう。
 佐沼城は、改変が進んでいるものの、街中の城にしては主要部の遺構がよく残っており、鹿ヶ城大橋の上から見た本丸の姿も、城以外の何物でもない。季節を問わず訪城出来る城である。
西館に残る横堀→IMG_1993.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.694839/141.196203/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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