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上楯城(宮城県川崎町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2584.JPG←主郭北側の二重横堀
 上楯城は、伊達氏の家臣支倉氏の居城である。支倉氏といえば、伊達政宗の命でヨーロッパに派遣された慶長遣欧使節団の支倉常長が有名であるが、上楯城は常長の祖父、支倉紀伊守常正が1545年に築いた。常正の子時正は、一族山口常成の子常長を養子に迎え、まだ7歳だった常長は上楯城で成長した。その後、時正に実子久成が生まれたため、家禄1200石を二分し、常長は600石を領した。伊達家中では中堅武将の一人であった。1613年、政宗は宣教師ソテロと共に常長らを遣欧使節としてスペイン国王・ローマ教皇の元に派遣し、常長はスペイン国王・ローマ教皇に謁見して親書を手渡し、1620年に長旅の末に無事に帰国して、政宗に復命した。しかし、常長はスペインで洗礼を受けてキリシタンとなっていたため、既に幕府の禁教令によってキリシタンを弾圧していた日本には常長が平静に暮らせる余地はなく、軟禁されたまま失意の後に1622年に死去した。

 上楯城は、支倉常長の墓所のある円福寺背後の標高260m、比高70mの館山に築かれている。南北に長い広大な主郭と、その西側にやや小ぶりの二ノ郭、主郭から南東に下って三ノ郭、そして主郭周囲の数段の腰曲輪で構成されている。主要な曲輪は全て横堀で外周を防御しており、特に主郭北側と二ノ郭西側は規模の大きな二重横堀が穿たれていて、前川本城に類似した構造となっている。殊に主郭北側の二重横堀は、途中に塁線の折れを設けて横矢を掛けている他、西端部では上下の横堀を竪堀で繋いでおり、外周の竪土塁や主郭角部が竪堀上にそびえ立っている。また横堀から落ちる竪堀が数本見られるが、これらは全て城道として機能していた様である。その例としては、三ノ郭の西端に築かれた虎口で、外に出るとすぐに竪堀に接続している。この竪堀を越えれば、外の腰曲輪にも繋がっている。この他、主郭から北東に伸びる尾根には二重堀切が穿たれて分断し、また三ノ郭南端の虎口の外にも小掘切が穿たれている。横堀が多用される一方で、虎口構造は平易で、このあたりは城主の格による技巧性の違いであろうか。城址は現在、公園となって遊歩道が設置されているので、若干の遺構の改変が見られるが、ほとんどの遺構は完存している。たかだか1200石の中堅武将でこれほどの規模の城持ちとは、中世・戦国期とは恐るべき時代である。
二ノ郭西側の内堀→IMG_2473.JPG
IMG_2688.JPG←小堀切と三ノ郭虎口
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.173669/140.711968/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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