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糠塚城(宮城県石巻市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_3891.JPG←土塁を伴った腰曲輪
 糠塚城は、葛西氏の家臣須藤勘解由左衛門の居城と伝えられている。須藤氏は、北上川下流域一帯を支配した山内首藤氏の一族とされるが、詳細は不明。糠塚城の歴史も不明点が多いが、唯一歴史に現れるのは、「須江山の惨劇」と呼ばれる事件においてである。1590年、小田原の役に参陣しなかったため、奥州の名族葛西氏・大崎氏は豊臣秀吉の奥州仕置によって改易された。しかしその旧領を与えられた秀吉の家臣木村吉清・清久父子は、統治能力の欠如から圧政を敷き、葛西・大崎両氏の旧臣たちの叛乱を誘発してしまった。しかしその裏には、失地回復を目論む伊達政宗の煽動があったとされる。それが露見しかかって秀吉への釈明に追われた政宗は、許されて秀吉の命で一揆鎮圧に向かうと、証拠隠滅を図るために佐沼城に立て籠もった最後の一揆勢を女子供に至るまで撫で斬りにしたとされる。その後、徹底した残党狩りを行い、一揆の主だった者達を謀略によって桃生郡須江山の糠塚館に呼び寄せ、残らず惨殺した。これが須江山の惨劇である。こうして証拠を残らず消し去った政宗は、出羽・会津の本領を没収されたが、一揆の責任を問われて改易となった木村氏に代わって、葛西・大崎の旧領13郡を与えられた。

 一方、糠塚城の地は、古代城柵の一つ、中山柵であったとも言われている。804年、蝦夷征討の為、武蔵・上総・下総・常陸・上野・下野・陸奥等の国から糒・米を陸奥国小田郡中山柵に運ばせたと『日本後記』にあり、その擬定地として糠塚城の地が有力視されている。

 糠塚城は、JR石巻線の佳景山駅のすぐ南にそびえる、標高37m、比高30m程の丘陵上に築かれている。主郭には配水場(既に廃止されている)があり、改変を受けている。配水場南側に大きな石碑と解説板が建っている。石碑は「中山柵跡」と刻まれ、文章が消えかけた解説板には、中山柵と糠塚城の両方の歴史が記載されている。明確な遺構は、付近の腰曲輪ぐらいであるが、低土塁を伴い、虎口らしい地形も確認できる。この他、南西中腹に祀られた神社の裏に、御子孫が建てた須藤勘解由左衛門の大きな墓が残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.497081/141.239204/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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