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狼河原城(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_4520.JPG←主郭前面の堀切
 狼河原城は、別名を鳩岡城、畑沢城とも言い、葛西氏の家臣亀卦川氏の一族、米谷修理の居城である。米谷亀卦川氏の事績については、米谷城の項に記載する。南北朝時代の1369年に、亀卦川(米谷)政明の子信明が登米郡狼河原に分封され、狼河原米谷氏の祖となった。その後、狼河原城を居城として、米谷氏の勢力の一翼を担い、この地に勢力を張ったと思われる。戦国末期には、米谷常秀の弟常忠が狼河原(米谷)氏を継承した。1590年、豊臣秀吉の奥州仕置によって葛西氏が改易となると、同年10月領内で葛西氏家臣団による反抗が起き(葛西大崎一揆)、奥州仕置軍との間で激しい戦いが行われたと言われ、その中に兄の米谷常秀と共に狼河原常忠の名が見られると言う。(一説には、この時の狼河原城主として千葉修理亮胤則と言う名が伝わるが、狼河原氏との関係は不明。また戦国後期の1564年には葛西民部少輔が城主であったとも伝えられ、狼河原城主については不明点が多い。)その後、伊達政宗の軍勢によって殲滅され、狼河原氏は滅亡したと思われる。

 狼河原城は、二股川の南岸に突き出た標高97m、比高77mの丘陵上に築かれた城である。普請がしっかりされた比較的大型の城で、本家の米谷氏が拠った米谷城よりも遥かに優れた遺構を有している。西麓の車道脇に城址標柱が建ち、そこから東に入っていった民家の脇から登り道が付いている。民家の横を通るので、立入りの許可をもらった方が良い。大きく4つの曲輪から成り、主郭を中心に、南西に二ノ郭、北西に三ノ郭、南東に四ノ郭を配置し、それぞれ腰曲輪を廻らしている。主郭と二ノ郭・三ノ郭はそれぞれ堀切で分断されているが、いずれの堀切も両側の腰曲輪を繋ぐ城内通路を兼ねている。また二ノ郭側の堀切には、主郭塁線が内側に折れて横矢が掛かると共に、どうも主郭の搦手虎口があったらしく、この主郭への登り道を隠すように二ノ郭側の土塁が配置されている。主郭は背後に土塁を築き、西辺部にも幅広の土塁を築いている。三ノ郭は、主郭との間の堀切手前に土塁と櫓台を築いているが、一方で前面に当たる北側は、明確な切岸などの区画や防御構造がなく、ダラダラとした緩斜面になっている。各曲輪周囲の腰曲輪は、綺麗に削平されて何段かに区画されており、特に主郭東側の腰曲輪は広幅で、主郭切岸も5m程の高さで聳えている。四ノ郭だけは主郭との間に堀切がなく、前面に数段の段曲輪を築いている。一方、二ノ郭の腰曲輪の先端(南端)も堀切となっているが、前述の西麓からの登り道はこの堀切に通じている。この堀切から南に少し行った先にも外郭があり、切岸で囲まれた三角形状の小曲輪と周囲の腰曲輪が確認できる。
 なお城内の中で、二ノ郭とその周りの腰曲輪だけが、西麓の民家の畑になっており、訪城した時作業中のお爺さんと話すことができた。主郭先端に大同桜という古木があり、時折それを見に来る人があるらしい。
主郭東側の切岸と腰曲輪→IMG_4549.JPG
IMG_4632.JPG←腰曲輪から見た二ノ郭
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.772923/141.341021/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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