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馬牛楯(宮城県白石市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_5399.JPG←二ノ郭虎口の土橋
 馬牛楯(馬牛館)は、萬行楯城とも言い、伊達氏の一族桑折氏の居城である。元々は、室町時代初期に刈田郡の領有を巡って伊達宗遠と亘理行胤がこの郡に侵攻し、斎川周辺で激戦を展開したと言われ、馬牛楯はこの頃伊達氏によって築かれたと推測されている。天文年間(1532~55年)には伊達氏の家臣桑折播磨守景長の居城となっており、奥州を二分した大乱「天文の乱」の際には、播磨守は伊達稙宗方に付いて、白石城を拠点とした伊達晴宗方の軍勢と、馬牛楯に立て籠もって戦ったと伝えられている。

 馬牛楯は、奥州街道(現・国道4号線)の西に隣接し、馬牛沼の北西に位置する標高190m、比高80m程の独立丘陵全体を城域にした、かなり大型の城である。東麓の孫太郎茶屋から登り道が付いており、地主さんにお断りすれば訪城は容易である。孫太郎茶屋入口にある現地解説板に縄張図が記載されており、それによると北から順に三ノ郭群・二ノ郭群・主郭群・南館と連郭式に並べ、更に主郭東側に東出郭を配置した構成となっている。いずれの曲輪群も広く、内部は何段かの平場に区画され、曲輪群の間は堀切は少なく、切岸だけで分けられている。堀切は、主郭と南館の間にだけ穿たれている。虎口は平易なものが多いが、二ノ郭虎口だけは土橋が構築されている。この他、三ノ郭の西側には大きな土壇状の曲輪があり、また二ノ郭外周などに腰曲輪群が構築されている。東出郭には塁線の折れを伴った土塁が築かれている他、主郭にも土塁が築かれ、西側の腰曲輪にまで土塁が伸びている。全体にあまり技巧性は感じられず、戦国前期の縄張りをそのまま残している様である。
 尚、2015年秋には標柱しかなかったが、2016年12月に訪城した時には前述の現地解説板が新設されていた。縄張図まで掲示されているので、ありがたい限りである。
東出郭前面の切岸→IMG_5214.JPG
IMG_5341.JPG←南館の堀切
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.951829/140.606825/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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