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南酒出城(茨城県那珂市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_7151.JPG←主郭虎口の土橋
 南酒出城は、佐竹氏の庶流南酒出氏の居城であったと言われている。鎌倉初期に、佐竹秀義の次男義茂が承久の乱での戦功により、この地を与えられて城を築き、南酒出氏を称したと言われている。後に、佐竹氏に与えられた美濃国山田郷の支配を命じられてこの地を離れた。その後、佐竹氏15代義治の孫東義賢がこの地に入り、酒出氏を称した。義忠の時に、佐竹宗家に従って出羽秋田に移り、廃城となったと言われている。しかし最近の研究では、内宿集落より低く、東に偏って築かれていることから、南酒出氏の城ではなく、額田城攻撃のために佐竹氏が築いた付城ではなかったかとの説が提示されている。

 南酒出城は、久慈川からやや離れた段丘に沢筋が入り込んだ部分の段丘先端に築かれている。南東端に主郭を置き、その西側に二ノ郭、北側に広がる台地に三ノ郭・四ノ郭が配置されていたと推測されている。しかし三ノ郭は、西辺部分以外は全面耕地化し、四ノ郭は蒼龍寺となって改変されており、遺構は湮滅している。一方で、主郭は完存し、二ノ郭も8割程度の遺構が残っている。主郭はかなり広い面積を有した曲輪で、しかも外周に土塁を築いて防御している。殊に背後に当たる西辺の土塁は高さがあり、しっかり普請されたものである。南寄りに虎口が築かれ、二ノ郭に向かって土橋が架けられている。主郭の周囲は大きな空堀が穿たれ、主郭北面には1ヶ所だけ、張出した櫓台が設けられている。空堀外周にも土塁が築かれ、東の谷戸に向かって落ちている。落ちていく途中に木戸口らしい部分や側方に平場が見られることから、下の低湿地帯に設けられた船着き場に通じる通路であった様である。二ノ郭にも空堀・土塁が築かれ、堀の規模は大きくないが西側中央付近に横矢掛かりのクランクが見られる。その西側には、三ノ郭の一部が南に伸びてきているが、ここにも空堀や土塁が残っている。この中には、曲輪内部に堀状の溝が空堀と並走しているが、どのような役割をもっていたのかは、少々わかりにくい。遺構としては以上であるが、付城と推測されるほど臨時的な城砦ではなく、本格的な普請をされた城である。一方で技巧的な部分は少ないので、戦国末期の額田城攻防戦ではなく、室町中期の額田城の長期攻防戦で構築された可能性は捨てきれないと感じた。
二ノ郭周囲の空堀→IMG_7095.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.479638/140.494967/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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