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真崎城(茨城県東海村) [古城めぐり(茨城)]

IMG_7555.JPG←1郭~2郭間の土橋と堀切
 真崎城は、佐竹氏の庶流真崎氏の城であったと伝えられている。鎌倉後期の弘安年間(1278~87年)に、佐竹氏5代義重の3男義澄の子義連がこの地に分封されて城を築き、真崎氏を称したと言う。

 真崎城は、新川の河口に近い天神山という半島状台地に築かれている。天神山は、県下で一番低い山だそうで、付け根の三角点で17.1m、台地の最高所でも22mしかない。この細長い半島状台地の周囲は、現在は水田地帯となっているが、往時は真崎浦という湖沼であったらしい。この湖沼に突き出した城で、大きく4つの曲輪で構成され、それぞれ堀切で分断されている。先端から順に1郭・2郭・3郭・4郭とすると、三角点のあるのが4郭で、背後に土橋の架かった堀切で台地基部と区画されている。4郭と3郭の間の堀切には歩道が通っており、ここから3郭に登ることができる。3郭は比較的小さな曲輪だが、前後に土塁を築き、前面にも堀切を穿っている。この堀切は両端とも麓まで降っており、おそらく船着き場に繋がる通路になっていた様である。ここを監視するように、2郭後部に櫓台が築かれている。2郭は細長い曲輪で、前述の3郭との間の堀切から登る虎口が築かれている。またこの堀切に沿って、東斜面だけ竪堀が穿たれ、ここだけ二重竪堀となっている。2郭には後部のみにくの字型の土塁があり、屈曲部に前述の櫓台が築かれている。2郭と1郭の間には土橋の架かった堀切が穿たれている。1郭も細長い曲輪で、東辺の半分程だけ土塁が築かれ、先端にも監視の櫓台が築かれている。1郭内部は段差で2段に分かれ、郭内は畑になっている。尚、4つの曲輪のどれが主郭であったかは意見の別れるところで、明確にできない。真崎城は、いずれの曲輪も削平は綺麗にされているが、いかんせん城の規模が小さく居住性は殆ど無いので、有事の際の詰城と船着き場の監視の城砦として機能したと思われる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.449439/140.590603/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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名無し太郎

今は、城跡に最も近い入り口は閉まっている。直前は民家になっている。近くのお婆さんが、草を刈ったりして管理していたが歳でできないと言う。東海村では特に管理していない模様。
記;令和3年

by 名無し太郎 (2022-03-19 14:16) 

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