七井城(栃木県益子町) [古城めぐり(栃木)]
←北遺構の土塁
七井城は、益子氏の支城である。益子勝宗が1576年に築城し、5男勝忠を城主とし、勝忠は七井氏を称した。しかし勝忠は1584年に主家宇都宮国綱と争い、敗れて尾羽寺で毒殺された。勝忠の子・忠兼も1586年に茂木城主茂木山城守と新福寺で戦って敗死し、七井城は廃城になったと言う。
七井城は、小貝川の支流大羽川と小宅川に挟まれた、比高10m程の低台地上に築かれている。城域は市街化が進み、多くの改変を受けているので、往時の縄張りを推測することは極めて難しい。しかし宅地の合間を縫うように北・南・西の3ヶ所、土塁と空堀が残存している。北遺構は駐車場裏に立派な土塁が20m以上、姿を表している。南遺構は、かなり浅くなっているがクランクした空堀と土塁が綺麗に整備されて残っている。西遺構は一直線状の空堀・土塁で、空堀は深さ3m・幅7m程の規模がある。台地上のやや西寄りに広い空き地があるが、ここは周囲の道路面よりやや高い位置にあるが、主郭の跡であろうか?いずれにしても、既に縄張り不明の城である。南遺構はせっかく綺麗に整備されているので、ここに城址碑や解説板があればいいのにと感じた。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.493509/140.098472/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
七井城は、益子氏の支城である。益子勝宗が1576年に築城し、5男勝忠を城主とし、勝忠は七井氏を称した。しかし勝忠は1584年に主家宇都宮国綱と争い、敗れて尾羽寺で毒殺された。勝忠の子・忠兼も1586年に茂木城主茂木山城守と新福寺で戦って敗死し、七井城は廃城になったと言う。
七井城は、小貝川の支流大羽川と小宅川に挟まれた、比高10m程の低台地上に築かれている。城域は市街化が進み、多くの改変を受けているので、往時の縄張りを推測することは極めて難しい。しかし宅地の合間を縫うように北・南・西の3ヶ所、土塁と空堀が残存している。北遺構は駐車場裏に立派な土塁が20m以上、姿を表している。南遺構は、かなり浅くなっているがクランクした空堀と土塁が綺麗に整備されて残っている。西遺構は一直線状の空堀・土塁で、空堀は深さ3m・幅7m程の規模がある。台地上のやや西寄りに広い空き地があるが、ここは周囲の道路面よりやや高い位置にあるが、主郭の跡であろうか?いずれにしても、既に縄張り不明の城である。南遺構はせっかく綺麗に整備されているので、ここに城址碑や解説板があればいいのにと感じた。
南遺構の空堀・土塁→
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.493509/140.098472/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
この辺には立派な家がありますね
でもお城があったとは知りませんでした
by tochi (2017-08-20 05:37)
>tochiさん
大きな旧家があるところは、城下町や根古屋(城主や家臣団の居住地)だったところが多いですね。大きな長屋門だらけの、いかにも武家屋敷、と言うところも他にはありました。
by アテンザ23Z (2017-08-20 09:15)