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石下城(栃木県市貝町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_0808.JPG←西側上段の横堀
 石下城は、関東の南北朝史に名を刻む城である。一説には、康平年間(1058~64年)に石下七郎右衛門によって築かれたと言われている。この城が明確に姿を現すのは、南北朝の抗争の中である。吉野に逃れて南朝を樹立した後醍醐天皇であったが、北畠顕家、新田義貞ら南朝の柱石たる諸将が相次いで討死し、南朝勢力の再建が急務となった。ここで南朝は、1338年9月、重臣の北畠親房(顕家の父)を常陸に下し、常陸南朝方の結集を図った。神宮寺城から阿波崎城を経由して小田治久の小田城に移った親房は、ここで神皇正統記を著して立場曖昧な武士たちの説得を図ると共に、一族の春日顕国に下野まで侵攻させた。顕国は1339年、北朝方の八木岡城益子城を攻め落とし、西明寺城を下野攻略の拠点に据えた。そして顕国は勢いに乗って、1340年8月、芳賀氏の飛山城の管理下にあった石下城を攻撃して落城させ、守備の兵は全員討死し、石下城はそのまま廃城になったと言う。翌41年8月には飛山城まで陥落させるなど、一時南朝方は猛威を奮った。しかし室町幕府が派遣した高師冬(将軍執事、高師直の従兄弟)が反撃に転じると南朝方も徐々に逼塞を余儀なくされ、1343年、常陸最後の拠点大宝両城を陥とされた親房は吉野に戻り、顕国は捕らえられて殺された。その後の歴史は不明だが、戦国期に市塙十郎政利の4男貞良が石下越後守と称して石下峠三百丁を領したとの記述が『益子系図』にあり、市塙氏が石下城を使用した可能性が指摘されている。

 石下城は、国道123号線の石下口付近に突き出た標高170m、比高70mの山上に築かれている。基本的には単郭の城で、主郭は縦長の台形状を呈し、西側斜面に二重横堀を穿っている。上段の横堀は北面では腰曲輪になり、北東角には腰曲輪に繋がる虎口郭を備えている。またこの横堀の南西端は竪堀状の城道となって落ちている。竪堀の上には雨溜まりの様な窪みも見られる。一方、主郭の南東角には段曲輪群が築かれ、東斜面にも細い帯曲輪が一段築かれている。この他、北東にやや離れた丘陵地は、自然地形の広い平場で、外周に帯曲輪らしい段が散見されることから、外郭として使われていた可能性がある。城の形態としては、南北朝期の素朴な形態を残していると思われる一方、主郭は思ったより広く、ある程度の兵数が籠もれるレベルの広さがあり、南朝方の攻撃に備えて街道筋を守備していたものと推測される。南北朝時代の歴史を伝える遺構として貴重である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.520001/140.127718/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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