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田野辺城(栃木県市貝町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_1338.JPG←高台となっている主郭跡
 田野辺城は、那須七騎の一、千本氏の支城である。千本氏8代美濃守資家が1505年に、益子氏の村上城に対する備えの為に千本城の出城として築き、弟の田野辺三郎資重を置いて守らせた。その後、左衛門尉資辰・将監重之と田野辺氏は3代続いたが、1585年、重之が城主の時に主家の千本資俊・資政父子は烏山で謀殺され、田野辺城は千本城と共に落城し、そのまま廃城となったと言う。

 田野辺城は、桜川西岸の段丘上に築かれた城である。慈眼寺の東側から北側一帯にかけて城域が広がっていたと考えられる。城域は、慈眼寺の境内以外はほとんど畑に改変されているが、地勢が往時の面影を残しており、何となく土塁や切岸、堀の形跡が確認できる。主郭は、畑の一番高い位置にあり、周りを切岸で囲まれた方形に近い平場である。以前は土塁が綺麗に残っていたが、耕地化でほとんど削ってしまったそうである。主郭の西側の一段低い畑が二ノ郭と推定されており、西端に僅かに土塁が残っている。二ノ郭と寺との間は高さ3m程の切岸で区画されている。この他、主郭の北側にも平場が広がっており、三ノ郭と推測されているが、何段かの平場に分かれ、しかも西側と北側に堀状の地形が残っているが、現状からでは曲輪の形状はわかりにくい。

 田野辺城では、慈眼寺ご住職と近所のお婆さんからいろいろとお話を伺うことができ、小学生向けの資料などもいただくことができた。伺ったところでは、千本氏の弟が村上城に対峙するために城を築いたと伝えられ、以前は田野辺城址から千本城が見えたが、間の木が大きくなって見えなくなってしまったそうだ。千本城から狼煙が上がり、千本城が落城した時に同時に田野辺城も落城したと伝えられているそうだ。

 尚、最後の城主田野辺重之の供養塔は宇都宮市内の浄鏡寺にあり、後日お参りした際に浄鏡寺ご住職の奥様からお話を伺うことができたので、ここに合わせて記載する。近代の田野辺家は、浄鏡寺の裏近くで医者をやっていたそうで、現在は鎌倉に移って医者をやっているらしい。しかし近年ではもうお墓参りに全く来なくなってしまい、音信不通のままで、3.11震災の時もお寺の方で倒れた墓を修復したとのことである。旧家に相応しい立派な供養塔であり、こうした文化財が忘れられていってしまうのは、非常に残念に思う。
田野辺重之供養塔→IMG_20170609_111049.jpg

お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.572354/140.128255/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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