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吉岡城(宮城県大和町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2517.JPG←南東の隅櫓台
 吉岡城は、伊達政宗の3男河内守宗清が築いた近世城郭である。宗清は1613年に下草古城に入部して二重の堀を持った平城として整備したが、下草古城は川沿いの低地のため水害に見舞われることが多く、1616年に新たに吉岡城を築いて居城を移した。一般的に「吉岡城」と呼称されるが、実際には元和の一国一城令により、「城」ではなく「所」(「要害」より一段下のランク)であった。宗清が1634年に35歳の若さで病没すると、吉岡伊達氏は無嗣断絶となり、1662年には奥山氏が入り、1757年には仙台藩の要職の地位にあった但木土佐顕行が東磐井郡からこの地に転封された。以後、但木氏の居城として幕末まで存続した。

 吉岡城は、善川と吉田川に挟まれた台地上に築かれた平城である。市街化で遺構の湮滅が進み、往時の縄張りを明確に把握するのは困難だが、南の隅櫓台が2ヶ所残存している。その内の西側の隅櫓台は城内大堤公園に隣接し、公園西側にはこの櫓台に繋がった土塁が残っている。公園に模擬櫓台があるので、ここが城跡だと勘違いしてしまうが、実際には公園の東側の畑・民家が城跡である。公園は、かつての庭園であったらしい。本丸は隅櫓台のある平場よりもう少し北にあったらしく、保健福祉総合センター敷地の南入口付近に城址標柱が建っている。大和町の中心に位置する街中の平城のため、壊滅的な状況だが、隅櫓台がしっかり残っているだけでも良しとすべきか。
 尚、伊達宗清とその養母であった飯坂の局の墓が天皇寺に残っている。縦長でスリムな、珍しい形の五輪塔である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.446338/140.879617/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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