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涌谷城(宮城県涌谷町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2919.JPG←北尾根の堀切
 涌谷城は、江戸時代には仙台伊達藩が江戸幕府に備えてその領内に取り立てた二十一要害の一、涌谷要害と呼ばれ、涌谷伊達氏(亘理氏)の居城である。元々は、奥州探題として勢威を誇った足利一門の大崎氏の庶流涌谷氏の居城であった。涌谷氏は、大崎氏初代家兼の3男彦五郎が百々城を居城として百々美濃守を名乗り、その2男が涌谷美濃守と称して涌谷氏の祖となったとも、或いは大崎氏5代満持の弟高詮が百々氏の祖となり、その2男直信が涌谷氏の祖となったとも言われる。いずれにしても大崎氏の一門として続いたが、1590年の豊臣秀吉による奥州仕置で、宗家大崎氏と共に滅亡した。その後、葛西大崎一揆を経て、伊達氏領となり、1591年に伊達氏重臣の亘理重宗に涌谷城が与えられた。重宗は最初、百々城に入り、翌年涌谷城に入城した。以後、涌谷城は近世城郭へと改修された。1604年に重宗は、隠居領として高清水城を与えられて移り、その子定宗が涌谷城主となり、1606年に伊達姓を与えられて、伊達一門・涌谷伊達氏となった。涌谷伊達氏は新田開発に努め、4代安芸宗重の時には石高2万2千石余に達したが、隣接する登米伊達氏との間で境界争いに端を発し、寛文事件(いわゆる伊達騒動)を巻き起こした。その後も涌谷伊達氏の居城として幕末まで存続した。

 涌谷城は、江合川西岸の南北に細長い丘陵上に築かれている。丘陵上は、2段の平場に分かれ、上段曲輪に涌谷神社が建ち、下段曲輪は公園化されているので、かなり改変を受けている。上段曲輪は近世には使用されていなかったようであるが、中世の主郭である。下段曲輪が近世の本丸で、南北に長い平場で伊達氏の居館が建っていた。中世ではニノ郭であった。その南端に、資料館となっている模擬天守と、現存遺構である太鼓堂という隅櫓が建っている。太鼓堂の周りの石垣も遺構であるそうだ。丘陵西側斜面に段が見られるが、これも往時の腰曲輪・犬走りの遺構であるらしい。この他、涌谷神社の北側に台地基部を分断する堀切が一部残存している。近世には、城下南側の平地に一之曲輪、東側に二之曲輪があり、水堀で囲まれていたが、現在は市街化で湮滅している。亘理要害同様、城の雰囲気は残しつつもかなり改変されてしまっているのは惜しいところである。
石垣と太鼓堂→IMG_2893.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.546496/141.130350/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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