石原城(京都府福知山市) [古城めぐり(京都)]
←土塁と空堀
石原(いさ)城は、高津城主大槻氏の一族の城である。天文年間(1532~55年)に、大槻安芸守政治によって築かれたと伝えられている。政治は、後に隠居して法名を「洞玄」と名乗って草庵を営み、死後長らく廃墟となっていたが、石原の僧華翁が寺を造って、政治の法名にちなんで洞玄寺と名付けたと言う。
石原城は、前述の通り洞玄寺の境内となっている。比高10m程の台地辺縁部にあり、寺の周囲に土塁と空堀が残っている。特に南辺の土塁には横矢の張出し櫓台が築かれている。規模・構造から考えれば、国人領主一族の居館と言った趣で、一部破壊を受けて改変されているものの、往時の雰囲気はよく感じられる。
尚、南東の山稜上にはヌクモ山城があり、「上城」と称されていたと言われ、石原城の有事の際の詰城であった可能性がある。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.298411/135.177906/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
石原(いさ)城は、高津城主大槻氏の一族の城である。天文年間(1532~55年)に、大槻安芸守政治によって築かれたと伝えられている。政治は、後に隠居して法名を「洞玄」と名乗って草庵を営み、死後長らく廃墟となっていたが、石原の僧華翁が寺を造って、政治の法名にちなんで洞玄寺と名付けたと言う。
石原城は、前述の通り洞玄寺の境内となっている。比高10m程の台地辺縁部にあり、寺の周囲に土塁と空堀が残っている。特に南辺の土塁には横矢の張出し櫓台が築かれている。規模・構造から考えれば、国人領主一族の居館と言った趣で、一部破壊を受けて改変されているものの、往時の雰囲気はよく感じられる。
尚、南東の山稜上にはヌクモ山城があり、「上城」と称されていたと言われ、石原城の有事の際の詰城であった可能性がある。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.298411/135.177906/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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