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藁無城(京都府南丹市) [古城めぐり(京都)]

IMG_2492.JPG←二ノ郭の崩落した石積み
 藁無城は、丹波守護代として勢威を振るった八木城主内藤氏の一族、船岡内藤氏の居城である。詳細な事績には不明点が多いが、『広瀬家文書』によれば、1559年夏、藁無城主内藤季有が杉崎大和守と共に黒井城主赤井氏を味方として桑田郡小川村で八木城主内藤宗勝と戦ったが、赤井氏が宗勝方に寝返ったため季有は敗れ、波々伯部光好が仲介して季有と大和守は宗勝と和睦したと伝えられる。1564年春には、小山の郷士某が藁無城主内藤安芸守季行が謀反を企てていると八木城の内藤和泉守に告げたため、城主宗勝は和泉守に兵350余名を従わせ藁無城を攻めたと言う。個人的な推測であるが、船岡内藤氏がこれほど内藤宗家に反抗的であったのは、おそらく宗勝が内藤氏とは縁もゆかりもない松永久秀の実弟で、宗家を乗っ取られたためであろう。

 藁無城は、林松寺背後の標高270m、比高130mの山上に築かれている。登山道は消失していおり、城に行くには斜面を直登するしかない。丹波守護代の一族にしては小規模かつ技巧性のない城で、最高所に小さな主郭、その南・東・北の三方を囲む二ノ郭、その北に土塁状の長い土橋で繋がった三ノ郭、その背後に2段に分かれた四ノ郭を配置した、基本的には連郭式の縄張りとなっている。二ノ郭南から東にかけては腰曲輪が廻らされ、長土橋の両側にも腰曲輪が広がっている。三ノ郭西側には大きな穴が開いているが、おそらく採石跡であろう。二ノ郭切岸には部分的に石積みらしいものが見られるが、自然石が多く、ほとんど崩落している。採石の山となっていたせいで、石垣の石が持ち出されてしまった可能性もある。いずれの曲輪もわずかな段差だけで区画されており、堀切は四ノ郭後部の北尾根を分断する部分に、比較的小規模なものが穿たれているに過ぎない。正直言って、技巧性に乏しい並の山城の類で、苦労して直登するほどの価値はない様に感じた。
 尚、山麓の林松寺は、平時の城主居館があった場所との言い伝えがあり、ここには立派な石垣がある。
四ノ郭背後の堀切→IMG_2524.JPG

お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.136853/135.481982/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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