SSブログ

高天原古戦場(茨城県鹿嶋市) [その他の史跡巡り]

IMG_3795.JPG←鹿島義幹の墓
 高天原古戦場は、鹿島氏内訌の古戦場である。1512年、鹿島景幹が、下総米野井城を攻めて討死すると、弟の義幹が養子として家督を相続した。義幹は、1523年に鹿島城を大改修したが、一部の近臣の専横を許し暴政を行った為、重臣達は鹿島氏同族の島崎城主島崎利幹と通じ、更に府中城の大掾氏、水戸城の江戸氏らを引き込んで、当主廃立を謀った。その結果、義幹は追放され、大掾高幹の弟通幹を迎えて景幹の娘を娶らせ、新たな鹿島氏当主とした。義幹は下総国の東氏(千葉氏の一族)を頼って東庄城(須賀山城か?)に逃れ、翌24年、鹿島城奪回の兵を起こし、利根川から舟によって高天原に上陸した。迎え撃った通幹勢との間で激戦となり、敗れた義幹は南方の鉢形野において自刃した。この時、義幹の宿老の内野氏・飯塚氏も節を守ってこれに殉じたと言う。またこの戦いでは、鹿島氏宿老で鹿島神流を創始した高名な武芸者でもあった松本備前守尚勝(政信)(剣豪塚原卜伝の師でもある)も通幹方として激闘の末、討死している。松本備前守の弟子の塚原卜伝も参戦していたが、卜伝は無事に帰還した。

 高天原は、鹿島神宮の東方に今でもその地名が残るが、具体的にこの付近のどこが戦場になっていたのかは判明していないらしい。しかし、そこから南方の鉢形には敗れた鹿島義幹の墓があり、その近くに内野氏・飯塚氏の墓も建てられている。義幹の墓は、なんと焼肉屋の真裏にある。実際は墓があるのではなく、墓碑が墓代わりとして建っている。道路を挟んで南の向かいに内野氏の墓があり、こちらも墓碑が墓となっているが、東に70m程離れた飯塚氏の墓には碑がなく、ほとんど丸坊主にされた木が植わっているだけである。車の通りの多い、市街地と化しているが、わずかに500年前の歴史が残されている。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.965112/140.649033/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:古戦場
nice!(6)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 6

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント