下之庄代官屋敷(栃木県市貝町) [古城めぐり(栃木)]
←貴重な文化財である代官屋敷
下之庄代官屋敷は、江戸時代に交代寄合芦野家(那須七騎の一で芦野城の故地に陣屋を構えた)の飛地に置かれた陣屋である。この地の名主であった藤平(とうへい)家が郷代官を代々勤めたと言う。この郷代官藤平家は、以前に「きえ」さんから神楽ヶ岡城に頂いたコメントによると、戦国末期の「西方崩れ」で西方氏(西方城主、宇都宮氏の一族)と共に赤羽に移った神楽ヶ岡城主藤平一族の末裔であろうとのことである。
下之庄代官屋敷は、往時の陣屋門と母屋が残っている。周囲は水堀で囲まれているようだが、夏場だったので薮で一部しかわからなかった。陣屋門と母屋は茅葺屋根の古い建築物で、江戸前期に建てられたと言う貴重な文化財なのであるが、なぜか町の史跡には指定されていない。見たところ、茅葺屋根がだいぶ傷んでいたので、市貝町の今後の文化財保護行政に期待したい。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.530312/140.062144/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
下之庄代官屋敷は、江戸時代に交代寄合芦野家(那須七騎の一で芦野城の故地に陣屋を構えた)の飛地に置かれた陣屋である。この地の名主であった藤平(とうへい)家が郷代官を代々勤めたと言う。この郷代官藤平家は、以前に「きえ」さんから神楽ヶ岡城に頂いたコメントによると、戦国末期の「西方崩れ」で西方氏(西方城主、宇都宮氏の一族)と共に赤羽に移った神楽ヶ岡城主藤平一族の末裔であろうとのことである。
下之庄代官屋敷は、往時の陣屋門と母屋が残っている。周囲は水堀で囲まれているようだが、夏場だったので薮で一部しかわからなかった。陣屋門と母屋は茅葺屋根の古い建築物で、江戸前期に建てられたと言う貴重な文化財なのであるが、なぜか町の史跡には指定されていない。見たところ、茅葺屋根がだいぶ傷んでいたので、市貝町の今後の文化財保護行政に期待したい。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.530312/140.062144/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:陣屋
「神ケ岡城その2」にコメントを書かせていただいた弥八です。
ごぶさたしております。生家の藤平家の本家にあたる藤平氏の屋敷のご紹介を見ましたのでコメントを書かせていただきます。
この地の藤平家は父から西方から来たと聞かされており、西方氏についてきて、この地に来た藤平氏の子孫と考えています。
ご紹介いただいた屋敷は水堀と塀で囲まれていました。門の中に入りにくい雰囲気があり、子どもの頃には門の前まで行って、入れなかった記憶があります。栃木県那須塩原市の那須拓陽高校のトップページに掲載されている門は大山巌元帥の次男の大山柏氏が今回ご紹介いただいたの屋敷の門を藤平氏から譲り受けたものと紹介されています。
父からは、東京電力の電気がなかったときに、屋敷内に発電機が設けられて電灯があり、小学生が社会科見学に行ったものと聞いたことがあります。
1960年代まで、秋の収穫がすむとこの地の藤平氏の子孫の各藤平家の持ち回りで宴を催し、各家の当主は裃を着て座敷に座り、庭先に簡易な舞台を組んで行われる太々神楽を眺めていました。ご紹介いただいた屋敷の藤平氏の当主は宴席の中央に座っていました。
私の子どものときには今回ご紹介いただいた屋敷で宴が行われた記憶はなく、屋敷の座敷にあがったことはありませんでした。
ご参考にしていただけることがありましたらさいわいです。
by 弥八 (2021-02-13 18:09)
>弥八さん
設定エラーでコメントに気付くのが大変遅れてしまいました。申し訳ありません。
またいつも貴重な歴史をご教示いただきありがとうございます。藤平家はこの地の名家だったのですね。一族で宴を催すとは、なんとも風情があって、さぞ素晴らしかったことでしょう。昔NHKでやっていた新日本紀行のビデオにでも残っていたら、良かったのにと思います。
by アテンザ23Z (2021-12-20 21:37)