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英賀城(兵庫県姫路市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_6511.JPG←英賀神社裏に残る土塁
 英賀城は、播磨の小大名三木氏の居城である。元々は、室町中期の永享年間(1429~41年)に赤松氏の一族赤松祐尚によって築かれたとされる。祐尚は、嘉吉の乱を起こした播磨守護赤松満祐の弟で、嘉吉の乱では兄に従って幕府追討軍に抗し、乱鎮圧後に一旦は赦免されるが、新たに播磨守護となった山名持豊(宗全)に抵抗して滅ぼされた。その後、赤松氏姻族の三木氏が英賀城に入り、以後三木氏の歴代の居城となった。三木氏は元々、伊予の豪族河野氏の一流で、3代将軍足利義満から播磨に地頭職を与えられ、三木通近が播磨恋ノ浜城に入部して、播磨三木氏の祖となった。通近の孫通重は赤松一族の別所氏から養子に入り、また赤松満祐の娘を娶るなど、三木氏は守護赤松氏の下で勢力を伸ばした。嘉吉の乱の際には、通重・通武父子は赤松方に付いて幕府追討軍と交戦し、通重は城山城で赤松一族と共に討死した。通武は恋ノ浜城に落ち延びて抵抗したが、後に新守護山名氏に帰順し、山名氏の命によって、祖父通近ら一族・家臣らと共に英賀城に居城を移した。通武は英賀城を改修して規模を拡張し、西播磨の有力領主に成長する基盤を築いた。通武の養嗣子通安は、赤松氏を再興した赤松政則に従って応仁の乱で軍功を挙げて勢力を伸ばした。通安の養嗣子通規は新たに市庭館を築いて移り住んで市庭家と呼ばれ、一族を城内に配置して「四本家(市庭家・井上家・土井家・堀内家)」と「三連家(山崎家・薮内家・町之坪家)」とし、これら七家の合議で英賀城内を運営したと伝えられている。また1513年、本願寺9世実如上人の子実円を迎えて英賀御堂本徳寺(英賀御坊)を建立し、三木氏一族はこぞって本願寺門徒となって、英賀城は益々栄えた。戦国後期になると、置塩城の赤松宗家は次第に衰退し、宍粟郡長水城の宇野氏、揖保郡龍野城・佐用郡上月城の赤松庶子家、東播磨の三木城主別所氏、中播磨の御着城主小寺氏、英賀城主三木氏らの小大名の割拠状態となった。ここで大きな転機となったのが、1577年の織田信長の部将羽柴秀吉による中国攻めである。播磨に侵攻した秀吉は、離反した別所長治の三木城を兵糧攻めの末に1580年に落城させ(所謂「三木の干殺し」)、別所氏に加勢していた三木氏の英賀城も続けて攻撃を受け、羽柴勢の大軍の前に短時日で落城した。

 英賀城は、夢前川河口近くの、水尾川との間に挟まれた平地に築かれた城である。現在は海岸線から離れているが、往時は海に面した城であったと考えられ、海上交通と山陽道の結節点となる要地であった。しかし昭和に入って、工場誘致に伴う夢前川の付け替え工事と、戦後の宅地造成によって遺構はほとんど湮滅している。明確な現存遺構は、英賀神社裏に70m程に渡って東西に伸びる土塁と、英賀薬師堂脇のわずかな土塁のみに過ぎない。しかし城内各所には、本丸跡の碑のほか「○○口之跡」と刻まれた石碑が建てられており、これらを追っていくといかに広大な城であったか、往時の城域の広さを窺い知ることができる。また本丸・二ノ丸付近の城の中枢部外周には、水路を挟んで1~2m程の高低差があり、城の名残を地形に残している。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.802766/134.646914/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世海城
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