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志方城(兵庫県加古川市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_7194.JPG←墓地に残る本丸土塁跡
 志方城は、赤松氏の重臣櫛橋氏の居城である。櫛橋氏は伊朝を祖とするが、その出自には諸説あって明確にできない。櫛橋氏の名が現れるのは南北朝期で、観応の擾乱における摂津打出浜の合戦の後、敗北して自刃を覚悟した将軍足利尊氏と執事高師直以下の高一族と共に、赤松範資(赤松円心の嫡男)の郎党の中に櫛橋三郎左衛門伊朝の名が、太平記巻29に見える。いずれにしても播磨守護となった赤松氏に代々仕えた。嘉吉の乱で赤松氏が滅び、その後赤松政則が赤松氏を再興して播磨を回復すると、櫛橋左京亮則伊は政則の股肱の臣として活躍し、祖父の例にならって播備作三国の財産出納の役を務めた。櫛橋氏は代々天神山城を居城としていたが、1492年に則伊が志方城を築いて居城を移したとされる。その後、伊家・伊定・政伊と続いた。1578年、三木城主別所長治が織田方から離反すると、櫛橋氏は別所氏に呼応して志方城に立て籠もった。しかし同年8月、羽柴秀吉の攻略にあって落城し、櫛橋氏は滅亡した。尚、伊定の娘・光(てる)は秀吉の名参謀として活躍した黒田官兵衛孝高の妻となり、嫡男長政(後の福岡藩主)を産んだ。

 志方城は、周囲を低地帯に囲まれた低台地に築かれている。南端に本丸、その北に二ノ丸、西側に西ノ丸を築いていたとされる。市街化で遺構はかなり改変されてしまっている。本丸は観音寺の境内となり、周囲に段差5m程の切岸が散見され、北の墓地裏に土塁跡が確認できる。切岸下には堀跡の名残も残っている。二ノ丸は志方小学校となり、西ノ丸は民家が立ち並んでいて遺構は完全に湮滅している。結局城跡らしさを残すのは本丸だけだが、市街地中心部の城の現況としては、それでも良しとすべきであろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.818075/134.822266/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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