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加古川城(兵庫県加古川市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_7242.JPG←称名寺周辺の水路は堀跡か?
 加古川城は、羽柴秀吉が播磨平定の為、播磨の領主達を集めて行った加古川評定が行われた城である。この地の豪族糟谷(糟屋)氏の居城で、糟谷氏は源平合戦の際に平家追討に功のあった糟谷有季が、源頼朝から播磨国印東郡南条郷を与えられ、糟谷有数のとき加古川城を居城としたとされる。南北朝期~戦国期には播磨守護赤松氏、赤松氏衰退後は別所氏などに仕えた。加古川城が歴史の表舞台に出るのは、前述の通り加古川評定の時である。1577年、羽柴秀吉は織田信長の命で中国攻めの序戦として播磨攻略に取り掛かった。初めて播磨に入った秀吉は、加古川城(糟屋の館)に入り、播磨の領主達を参集して毛利討伐の軍議を行った(加古川評定)。この時、三木城主別所長治は自身は参上せず、代理として叔父で反織田派の別所賀相(吉親)を派遣した。この賀相が評定において秀吉と衝突し、帰城後に長治を説得して別所氏を織田方から離反させた。これを契機として一旦は織田方に付いた播磨諸豪は動揺して毛利方へ相次いで寝返るなど、情勢が一気に緊迫した。姫路城に進出していた秀吉は周囲を敵性勢力に囲まれる形となり、官兵衛の進言に従って圓教寺に入り、白山城を築いて本陣とした。この時、加古川城の糟谷氏では、時の12代城主武則が黒田官兵衛孝高の推挙により秀吉に仕え、以後一貫して秀吉の幕下で活躍した。武則の兄朝正は別所側に立って三木城に入った。別所氏麾下の反織田勢力は、神吉志方高砂・野口・淡河・端谷の6城主は各自の城を堅守し、他の小城主は三木城内に籠城した。織田方は大軍勢を播磨に派遣して、別所方の諸城を各個撃破した。この時、加古川城は織田方最前線の重要な兵站拠点となった。最後に残った三木城には秀吉が厳重な包囲網を構築して、「三木の干殺し」と呼ばれる過酷な籠城戦となった。この三木合戦において、糟谷武則は箕谷ノ上付城に布陣して活躍したと言う。後に武則は秀吉の小姓頭となり、賎ヶ嶽七本槍で功名を挙げ、加古川城主として35,000石を与えられた。武則の子宗孝は、1615年の大阪夏の陣で豊臣方として籠城し、討死した。同年6月、加古川城は破却された。

 加古川城は、現在の称名寺一帯にあったと言う。加古川の南岸に位置し、近くには山陽道(現国道2号線)が通っていることから、加古川の渡河点を押さえる要衝であったと考えられる。付近一帯は完全に市街化されており、遺構は完全に湮滅している。わずかに寺の周囲に水路があり、往時の堀跡であった可能性が推測される程度である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.768595/134.830420/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平城
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