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師直塚(兵庫県伊丹市) [その他の史跡巡り]

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 師直塚は、足利尊氏の執事として辣腕を振るった高師直とその一族を祀ったとされる塚である。高氏は高階氏の出自で、古くは平安時代から源氏との関係を有し、鎌倉時代には代々足利氏の執事となって家政全般を取り仕切っていた。鎌倉時代の足利氏は、執権北条氏一門以外の外様では最大の勢力を有した御家人だっただけあって、諸国に膨大な所領を持っており、これらを管轄・統治するために政所・奉行所・御内侍所といった統治機構が整備されていた。あたかも小幕府とも言うべき規模で、これら全体を統括していたのが高氏であった。殊に南北朝動乱初期の激変する社会情勢と勢力図の中で、これらを破綻なく統括し続けていたことは並の能力ではなかったはずで、師直がいかに切れ者であったかが想像できる。
 尊氏が将軍となってからは、執事施行状という形式を発案して将軍権力を支えると同時に、将軍の親衛軍団長として各地の戦いで抜群の戦功を挙げた。戦場での機動性を高めるために「分捕切棄の法」を初めて採用し、北畠顕家を討死させた。四条畷の戦いでは、細川顕氏・山名時氏といった猛将を相次いで撃破した恐るべき知略をもった楠木正行をも撃ち破り、自刃に追い込んだ。『太平記』ではこの時の師直を、敵の偽装撤退を見抜いた「思慮深き老将」と評している。また、正行の奇襲に混乱に陥った自軍を押しとどめたり、師直の厚情に感激した上山左衛門という武士が、師直の身代わりとなって盾となり討死したエピソードも語られている。
 一方で師直には専横の振る舞いも多かったらしく、戦功を無視された桃井直常など、恨みを持つ武士も多かったとされる。それが遂に室町幕府をしてきた足利直義との党派対立に発展し、観応の擾乱へと突き進むこととなった。摂津打出浜の合戦で弟直義に敗れた尊氏は、師直・師泰兄弟の出家を条件に和睦を結んだが、先年師直に養父重能を殺されていた上杉能憲は、武庫川辺で師直・師泰兄弟を始めとする高一族を悉く誅殺した。『太平記』によれば、この時殺されたのは師直・師泰以下、一族家臣合わせて14人に登った。太平記の記述を読む限り、能憲は予め誰が誰を殺すか用意周到に決めており、しかも和睦して武装解除された敵将を、実際に養父殺害に関わった師直・師泰だけでなく14名も抹殺したのは、虐殺というべき所業であった(家来を含めるともっと多かったはずである)。太平記の描いた殺伐とした時代でも、この様な虐殺行為は他に例を見ない。この行為を黙認した直義は、自軍に付いた武士達からも早くに信望を失ったのだろう(生粋の直義党の武将は別として)。それが結局、打出浜合戦での大勝からわずか半年での直義の京都脱出、そして八相山合戦・薩埵山合戦での敗北へと繋がっていくことになったと個人的に推測している。
 尚、これ以後も高氏の傍系は細々と続いたが、師直時代の様に燦然と輝く事績を残す機会は、遂に再び廻ってくることはなかった。

 師直塚は、武庫川東岸の国道171号線の側道脇にある。大正4年に建てられたという立派な石碑がここに移されている。周辺は市街化が進んで往時の面影は全く見られないが、石碑だけが動乱の歴史を今に伝えている。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.774023/135.384264/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0


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