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有岡城(兵庫県伊丹市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_7757.JPG←主郭西側の堀跡
 有岡城は、織田信長に謀反を起こした荒木村重の居城として知られ、また村重を翻意させようと説得に訪れた黒田官兵衛孝高が幽閉された城としても有名である。元の名を伊丹城と言い、この地の土豪伊丹氏が鎌倉末期頃に築いたと考えられている。『太平記』には、1362年7月、佐々木道誉の讒言によって南朝に奔った細川清氏が讃岐を攻撃した際に、これに呼応した楠木正儀・和田正氏らの南朝軍が摂津を攻撃したことを記載しているが、この時、摂津守護代箕浦次郎左衛門と共に迎え撃った北朝軍の中に伊丹大和守の名が見える。同時代の軍忠状などには伊丹城の名が記載されており、南北朝期には伊丹城が実在していたことが判明している。
 また、1495年に成立した『新撰莵玖波集』という連歌集の中に、摂津守護細川氏の家臣伊丹兵庫(元親)の歌が4首も撰ばれていることから、伊丹氏は細川氏家中でも有力家臣で、和歌にも秀でた教養人であったらしい。その後、管領細川政元の暗殺に端を発する細川氏の後継争い(永正の錯乱)が起こると、伊丹城は度々攻防の場となり、三好長慶が畿内を制圧してからも伊丹城は度々攻撃を受けている。
 1568年、織田信長が足利義昭を奉じて上洛すると、伊丹城主伊丹親興は直ちに信長に応じて三好氏を攻撃した。信長が摂津を制圧すると、親興は池田城主池田勝正・芥川城主和田惟政と共に「摂津三守護」となった。しかし将軍義昭と信長が不和となり、1573年に義昭が追放されて室町幕府が倒壊すると、将軍家側近となっていた伊丹氏も信長と対立した。翌74年、信長は、池田勝正の家臣として頭角を現した茨木城主荒木村重に命じて伊丹城を攻撃・落城させ、伊丹氏は滅亡した。伊丹城に入った村重は、信長より摂津一国38万石を与えられ、また城名も信長の命により有岡城と改め、摂津一国の軍事上の中心となるべく大改修を行って、惣構を有した城を完成させた。その後も信長に従って石山本願寺攻めなど各地の合戦に参加していたが、1578年10月、突然信長に反旗を翻し、有岡城に立て籠もった。驚いた信長は明智光秀らを説得に行かせたが失敗した。また羽柴秀吉の家臣黒田官兵衛も説得に赴いたがやはり失敗し、城内の土牢に幽閉されてしまった。信長は、大軍で有岡城を包囲攻撃したが、屈指の堅城であったため1年近くに及ぶ長期戦となった。しかし次第に敗色が濃厚となり、村重は有岡城を脱出して嫡男村次の居城尼崎城へ移った。その後も残った家臣たちが籠城戦を続けたが、1579年11月に有岡城は落城し、捕らえられた荒木氏一族・家臣・その家族らは悉く誅殺された。その後、池田之助(池田恒興の長男で輝政の兄)が城主となったが、1583年に美濃岐阜城に移ると、有岡城は廃城となった。

 有岡城は、猪名川西岸の伊丹段丘に築かれている。南北に長い不定形をした惣構を有した城で、惣構の北端に岸の砦、中央西端部に上臈塚砦、南端部に鵯塚砦を築いて防御を固めていたと言う。主郭は城域中央の東端に位置しているが、主郭西端部が周囲より一段高く、公園化されて残るほかは、鉄道や道路建設で破壊されている。JR伊丹駅の真ん前であるので、今となってはわずかに公園として残っているだけでも貴重であろう。昭和50年から行われた発掘調査で、主郭西側の土塁内面の石垣や石組み井戸・建物礎石などが検出され、復元保存されている。石垣には、福知山城などと同じく五輪塔の石材が転用されている。主郭跡の公園の西側には広い円弧状の窪地が残っており、これほど市街化が進んだ街中であるにも関わらず堀跡であることが明確にわかる。こんなに綺麗に堀跡が残っているとは予想外である。その他の遺構が見る影もないのは、残念だが場所的に仕方のないところであろう。とにかく幅広の主郭堀跡が立派である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.781232/135.420871/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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