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手賀城(千葉県柏市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_8376.JPG←外郭に残る土塁跡
 手賀城は、下総の名族千葉氏の重臣原氏の一族、手賀原氏の居城である。手賀原氏は、戦国中期の頃に臼井城主原胤貞が千葉勝胤より手賀郷600貫を与えられ、胤貞の2男筑前守胤親が手賀城に入って手賀原氏初代となったと伝えられるが、時代的に合わないなど信憑性に乏しく、詳細な系譜は不明である。胤親の子久胤の時に小田原の役となり、手賀城も上方勢の攻撃を受けて落城した。その後、手賀原氏は当地に隠棲していたが、久胤死後にその後を継いだ弟胤次の時に徳川家の重臣板倉勝重に召し出され、1617年、勝重の推挙によって江戸北町奉行所の与力に抜擢されたと言う。その後、幕末まで代々江戸町奉行の与力として続いた。

 手賀城は、手賀沼南東の比高15m程の段丘上に築かれている。広い台地の広範囲を城域としていたらしいが、宅地化で遺構の湮滅が進んでいる。主郭は段丘北端の中央部にあり、現在は畑となっている。畑の中に小さな神社が建ち、神社への入口に城址碑が建っている。主郭の東側などに僅かに土塁が残存し、その脇を通る車道は往時の堀底道であろう。この他にも宅地の脇や外郭南東部の市道脇に、部分的に土塁が残存している。明確な遺構はその程度であるが、城の地勢はよく残っている。


【2018年1月再訪】
前回手賀城を訪れたのは真夏で、見逃していた遺構もあった為、近くまで来たついでに再訪した。主郭の東側斜面に腰曲輪があり、先端には木戸口と思われる地形が確認できる。腰曲輪から谷戸を挟んで、東側に土塁を伴った段曲輪がある。一方、主郭の南西には斜面に沿って円弧状に横堀と土塁を築いた曲輪跡がある。この他、前回は気付かなかったが、主郭南西の民家の中に土塁が見られ、ちょうど道路の屈曲部に当たり、土塁はL字型をしているようである。どうも枡形虎口の跡の様である。そうすると、道路の左手の民家の敷地境界に見られるわずかな土盛も、もしかしたら虎口土塁の遺構なのかも知れない。
主郭の東側腰曲輪の木戸口→IMG_9518.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.845761/140.072100/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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