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助川海防城(茨城県日立市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_9125.JPG←物見番所跡
 助川海防城は、水戸徳川藩が江戸時代後期に築いた海防を目的とする城である。徳川幕府は長らく鎖国政策を採ってきたが、1790年代よりロシア船を始めとする外国船が度々日本近海に現れ、その一部は日本に通商を求めるようになっていた。強硬な攘夷論者であった水戸藩9代藩主徳川斉昭は、天下に率先して海防の重要性を強調し、1836年、家老山野辺義観(出羽の驍将最上義光の4男山野辺義忠の裔孫)を海防惣司という新設の役職に任じて、太平洋を一望できる助川村の高台に海防を目的とする城を築いて居住させ、異国船の侵入に備えさせた。築城に当たっては、新規築城は幕府から禁止されていたため、佐竹氏時代に新城七郎という武士(小野崎氏の庶流介川氏の一族か?)が築いていた蓼沼館を修築して海防惣司の屋敷にするという名目で、許可を受けたと言われる。以後、山野辺氏が歴代の城主を務めた。1864年9月、水戸藩で発生した天狗党の乱の時、城主山野辺義芸は天狗党側と見做されて幕府軍に攻撃され、助川海防城は落城・焼失した。

 助川海防城は、日立の海岸線から約2.2km離れた、標高110m程の丘陵上に築かれている。海防、即ち沿海警備を目的とする城である為、普通に思い浮かぶ城郭とは大いに趣を異にしている。本丸から南東斜面に段々に曲輪群を連ねただけの構造で、一般の近世城郭とはおよそ程遠い。本丸や二ノ丸は現在城跡公園となっているが、曲輪群と切岸のほかは遺構はかなり少ない。本丸には土塁が散在している。本丸正面に内枡形状の空間があるが、公園化による改変の様に見受けられる。というのも、全然違う場所に正門礎石が残っているからである。これらの他、公園内各所に標柱などが建っている。この様に往時の面影を朧気ながら伝えるのは公園部分のみで、公園以外の部分は市街化が激しく、旧状を推し量りにくい。助川海防城は、遠見番所を備えたことからも物見による警備を主目的とした城であったことが窺える。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.592006/140.639462/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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