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一栗城(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_4024.JPG←小館から見た大堀切と中館切岸
 一栗城は、大崎氏の重臣で岩手沢城主氏家氏の一族一栗氏の居城である。当初は一栗放牛が古館を築いて居城としたが、戦国末期にその孫の兵部隆春が新たに一栗城を築いて居城を移したと言われる。城内は、東館(三ノ郭)・中館(主郭)・小館(二ノ郭)・西館(四ノ郭)が馬蹄形に配置され、中館には城主一栗兵部隆春が、東館には隆春の家臣千田雅楽之丞が、小館には同じく家臣の半田土佐守が、西館には隆春の祖父で隠居していた一栗放牛が居住していたと言う。1590年に生起した葛西大崎一揆の時、隆春は一栗城に二百数十名の郎党と立て籠もって、一揆鎮圧を進める伊達政宗の軍勢を迎え撃とうとしたが、政宗は一栗城を無視して東の栗原郡に向かって兵を進めた。これは、一栗氏を含む氏家一族が大崎家中では親伊達派であったため、政宗は敢えて見逃したとも言われる。しかし祖父放牛と共に猛将として知られる隆春は、「小城ゆえに無視された」として怒り、郎党を引き連れて一揆勢の最後の拠点佐沼城に入った。隆春は猛将の名に恥じぬ活躍を見せて、攻め寄せる伊達勢を翻弄した。隆春はここで討死したとも、出羽最上氏の元に逃れたとも伝えられる。放牛も、92歳と言う高齢にも関わらず果敢に戦って討死したと言う(戦国武将の討死としては、おそらく最高齢)。一栗氏滅亡後、一旦廃城となったが、江戸時代には大崎氏の元家臣四釜氏が一栗城で居住した。

 一栗城は、江合川東岸の標高140m、比高60m程の丘陵上に築かれている。南西麓の車道脇に解説板があり、その奥に大手道が残っている。この大手道は、一ノ木戸の先にひな壇状に連なった曲輪群の中央を貫通し、最上段で左折して東館の西側斜面に回り込んでいる。途中は横堀状の通路となり、また櫓台を伴った木戸口(二ノ木戸)もある。その先に進むと中館(主郭群)と東館の間の鞍部の曲輪(堀切兼用)に至る。ここから南に登ると東館で、縦長の曲輪となっており、東辺に低土塁を築き、南端に櫓台を置いている。その先の南尾根には小堀切が穿たれ、更に土壇と細尾根が伸び、尾根の南端に物見台が築かれている。ここは城域の南端に当たり、物見としては絶好の位置にある。また東館の西の塁線上からは大手の城道が監視できるようになっている。東館の北側は、前述の鞍部の曲輪に向かって土塁が伸びている。堀切を兼ねた鞍部の曲輪から中館に向かって木戸口(三ノ木戸)があり、両側に腰曲輪と櫓台が築かれている。ここは、東館の土塁上と木戸口両翼の塁線上の3ヶ所から同時に攻撃を受ける、必殺のクロスファイヤーポイントで、厳重な防御線が構えられている。中館は、南と西に2~3段の腰曲輪を築き、東に伸びる尾根には大堀切を穿って、背後を分断している。堀切手前には櫓台らしい土壇を築いている。中館の大手虎口は西の腰曲輪に向かって開いている。腰曲輪から北に進むと大堀切を挟んで小館に至る。二ノ郭は後部に土塁を築き、東から北にかけて腰曲輪を築いており、特に北に向かって腰曲輪が広がっている。小館を西に進むと、土橋の架かった堀切を介して西館に至る。西館の虎口は小型の桝形虎口になっている様だ。西館も北に腰曲輪を築き、南西端の土塁の先に小堀切を穿っている。その先の細尾根には特に遺構は見られない。西館の北に伸びる尾根にも舌状曲輪がある様だが、時間の都合でパスした。以上が一栗城の遺構で、全ての曲輪群は堀切で分断され、東館・西館共に先端の尾根筋に小堀切を穿っている。腰曲輪も比較的規模が大きく、全体に普請はしっかりしている。虎口は平易な坂虎口が主であるが、大手道が完存しているなど、城の構造がわかりやすい。さすがは戦国末期の城だけのことはあると感じた。

 尚、城の南東麓の樹林寺には、寺の開基である一栗兵部隆春の供養碑が建っている。
腰曲輪群を貫通する大手道→IMG_3872.JPG
IMG_3884.JPG←大手道途中の二ノ木戸
西館~小館間の堀切→IMG_4046.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.695207/140.857837/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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