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太田城(茨城県八千代町) [古城めぐり(茨城)]

IMG_5457.JPG←主郭周囲の土塁と空堀
 太田城は、下妻城主多賀谷氏の支城である。戦国末期の多賀谷氏当主重経は、1590年の小田原の役の時、結城晴朝、水谷勝俊らと小田原に参陣して秀吉に拝謁し、役後、下妻6万国を安堵された。重経は、長男三経を差し置いて、佐竹義宣の弟宣家を養嗣子として迎え、下妻多賀谷氏の当主とした。一方、三経は和歌城に仮住まいした後、太田城を築いて居城とし、結城晴朝の家臣となった。この結果、多賀谷氏は二系統に分裂することとなった。関ケ原合戦の際、重経は上杉景勝に通じた為、徳川家康によって改易された。戦後の論功行賞で、多賀谷三経は主君結城秀康(徳川家康の次男)に従って家臣団を引き連れて越前に移り、太田・和歌両城は廃城となった。後、三経に始まる太田多賀谷氏の系統は、越前松平氏の重臣として続いた。

 太田城は、低湿地帯に突き出た比高5m程の台地上に築かれている。宅地化で遺構の湮滅がかなり進んでいる。主郭は民家が建っているが、周囲の土塁や空堀など、比較的よく遺構が残っている。しかしその他は民家が立ち並び、断片的に土塁跡らしきものは民家の庭先に残っているが、不審者と間違えられるおそれもあり、写真撮るのも憚られる雰囲気が濃厚である。主郭の南を東西に貫通する車道は、城内のメインストリートだったと思われ、東側には鉤の手の屈曲も見られ、その脇に土塁らしき残欠もある。往時の虎口であった可能性がある。この他、南の愛宕神社も城内の一角であったと言われ、境内周囲に土塁が残っている。存続期間が少ない城だったためか、かなり遺構が失われているのは残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.177644/139.907584/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:中世平城
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