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田野城(栃木県益子町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_9864.JPG←主郭の土塁と空堀
 田野城は、笠間氏の庶流羽石内蔵介時政が1560年に築いたとされる城である。時政は、笠間時朝から15代目に当たる。しかし『羽石家文書』では、羽石氏初代宗時(笠間氏5代時高の次男)から末代正秀までの約300年間に渡って、田野城主として一帯を支配したとも伝えられる。いずれにしても笠間方の勢力であった。しかしこの地は益子氏の本拠地に近く、戦国後期に益子氏と激しく争った笠間氏勢力の城がこの地にあるというのは、敵の喉元に刃を突きつけた様なもので、軍事的緊張は一気に高まったであろう。『水谷蟠龍記』によると、1585年に久下田城主で結城氏麾下の勇将として名高い水谷蟠龍斎正村に攻撃され、城主は討死し、田野城は落城した。ちなみに『水谷蟠龍記』では城主の名を羽石内蔵允盛長としている様だ。その後、江戸時代に入るとこの地は旗本松平氏4500石の領地となり、1676年、田野城主郭跡に陣屋(田野陣屋)が置かれ、幕末まで存続した。

 田野城は、小貝川東方の台地上に築かれた平城である。『日本城郭大系』によれば、周囲には、東郭・西郭・南郭・新屋敷などの地名が残り、かなりの規模を持った城だった様である。現在は「中城」と呼ばれる主郭とその周囲の二ノ郭の遺構が残っているだけである。しかしこれが結構素晴らしく、主郭はほぼ完存しており、主郭周囲の土塁は高さ2.5m程でほぼ全周を囲んでいる。南側中央に虎口が築かれ、土橋が架かっている。その外周は空堀が廻っており、更にその周りに二ノ郭が築かれている。二ノ郭北辺には土塁と横矢掛かりの凸形の張り出しがあり、空堀を監視している。しかし二ノ郭では空堀は北側のみ残っており、それ以外は段差が残っているに過ぎない。ちなみに現在の堀は空堀であるが、往時は3重の水堀であったらしい。城の鬼門には普門寺があり、古い五輪塔が残っているが、城との関係は不明である(羽石氏の墓は、東方の長谷寺にある)。尚、地主の方の話では、土塁が崩れないよう除草剤を撒くのを控えているとのことで、遺構保存の努力には感謝する他はない。いずれにしても、残っている遺構だけでも見応えは十分で、末永く保存していってもらいたい。主郭の南西に隣接する民家が地主さんの家なので、許可をもらってから訪城してほしい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.430908/140.079803/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


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タグ:中世平城
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