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益子古城(栃木県益子町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_0308.JPG←西郭外縁部の土塁
 益子古城は、宇都宮氏麾下の勇猛な軍事集団、紀清両党の一翼を担った益子氏の初期の居城とされている。益子氏の事績については、益子城の項に記載する。『下野国誌』によれば、平安後期の康平年間(1058~65年)に征東大将軍紀古佐美の後裔紀正隆が那流山(高館山)の麓に城を築いて益子氏を称したと伝えられるが、この「麓の城」が益子古城だとされている。以後、益子城に居城を移すまで、機能していたと考えられている。また山麓の益子古城に対して詰城として築かれたのが山城の西明寺城だと考えられている。しかし発掘調査の結果、出土遺物などから益子古城は戦国期に約50年間に渡って存続した城と推測され、伝承と発掘調査結果が食い違い、益子古城・益子城・西明寺城の3城の関係が不明確となっている。
 尚、益子城の別名を益子古館とも言うので、益子古城とごっちゃになって少々紛らわしい。

 益子古城は、益子中心市街地の北側に位置する比高15m程の台地上に築かれている。中心に主郭を置き、その東西に南郭・西郭を配置し、主郭の北側に東西に伸びる丘陵上にも北郭・東郭を配置していたとされている。現在は、主郭・西郭・北郭は公園化されており、南郭には陶芸美術館が建てられ、東郭は工房広場となっており、いずれも大きく改変されている。明確な遺構として確認できるのは、主郭~南郭間の堀切、主郭~北郭間の堀切、それと西郭外縁部の土塁だけである。しかし堀切もかなり改変されてしまっている様だ。この他に、腰曲輪状の平場が主要な曲輪の外周部に見られ、横堀状の地形も見られるが、あまりに改変が多いため、どこまで往時の姿を留めているのか、判断が難しい。また主郭には、解説板は建っているが、遺構説明の標柱などは城内に一切なく、多分発掘された主殿の礎石位置を示していると思われる石列にも何らの説明もなく、キャッスラーでなければ何が何だかわからないだろうと思う。益子城でも書いたが、益子町は陶芸ばかりでなく史跡整備にも力を入れて欲しい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.465446/140.103385/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


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