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真下城(群馬県藤岡市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_0697.JPG←三ノ郭のL字状土橋
 真下城は、譲原城とも言い、関東管領山内上杉氏に属した真下氏の居城である。真下氏は、武蔵七党の一、児玉党の一流で、正確な系図は不明ながら、児玉氏2代弘行の次男・入西三郎大夫資行の子・五郎大夫基行が、児玉郡真下郷に分封され、真下氏を称したことに始まると推測されている。真下氏は、南北朝期に真下春行が南朝方の北畠顕家に従ったが、討死して没落し、残った一族がこの地に移住したらしい。そして天文年間(1532~55年)の頃に、真下伊豆守吉行が真下城を築城したと伝えられている。山内上杉氏に属していたことから、山内上杉氏の居城平井城の支城として機能したと考えられる。1551年、真下吉清が城主の時、河越夜戦の後に関東南半の覇権を握った北条氏康が上州に進撃し、真下城は北条氏に攻略された。その後の歴史は不明であるが、遺構を見る限り、北条氏の下で改修された可能性がある。

 真下城は、神流川西岸にそびえる標高310m、比高160mの山上に築かれている。登道は南東麓にあるらしいが、あまり整備されていないという情報だったため、私は東の尾根先端にある給水施設から登った。斜度の緩やかな尾根筋で、藪も少なく、こちらからの登城がお勧めである。広い緩斜面が続くが、途中から登道が土塁状の城道となり、北側に平場が広がるようになる。城に近づくと、眼の前の斜面に腰曲輪群が現れ、城道は坂土橋となって四ノ郭に至る。坂土橋の北側は短い横堀が穿たれ、土橋の動線を制約している。城は、東から順に四ノ郭・三ノ郭・主郭・二ノ郭と連ねた連郭式の縄張りとなっている。広い三角形状の四ノ郭の奥には三ノ郭があるが、その前面に横堀と土塁が築かれている。土塁の中央は切れていて、横堀に通じる通路となっている。横堀の北側は三ノ郭北側の帯曲輪に通じ、途中で北斜面に竪堀(城道兼用か?)が落ちつつ、三ノ郭背後の堀切まで通じている。一方、横堀の南側では土塁がL字状土橋となって三ノ郭に繋がっている。ここでは前述の横堀に、更に土橋側方に竪堀を穿って土橋の動線を制約した構造となっている。この横堀・竪堀を連携させたL字状土橋の構造は北条氏関係の勢力の城(武蔵天神山城の東出郭・下野唐沢山城の南東遺構群・下野諏訪山城など)によく見られ、真下城も北条氏によって改修された可能性がある。三ノ郭は正方形の曲輪で、後部に低土塁を築き、南西隅に張り出しを設けてL字状土橋へ横矢を掛けている。主郭との間には堀切を穿ち、三ノ郭から土橋を架けて主郭南側の腰曲輪に繋げている。その上の主郭は、やはり後部に低土塁を築き、背後に堀切を穿って、西の二ノ郭と分断している。この堀切は、主郭・二ノ郭の南側の腰曲輪・北側の帯曲輪まで分断している。二ノ郭には土塁がなく、背後の西尾根との間を堀切で分断している。南西には虎口郭を張り出させて、西尾根に通じる土橋を架けている。西尾根は少し先で南東に降る尾根と分岐し、その分岐付近に平場を設けている。『日本城郭大系』ではこれを水の手曲輪としている。この他、主郭の北東尾根にも2段程の段曲輪が築かれるほか、前述の東尾根の城道南側にも何段かの広い曲輪が広がり、その南端に虎口と城道が築かれている。城の形態を見る限り、大手は東尾根だった様である。真下城は、大きな城ではないが、一部に技巧的構造が見られ、神流川流域の山城としては出色である。
堀切と二ノ郭→IMG_0740.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.153097/139.041574/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


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